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2016年5月 6日 (金)

道具と化す言葉

160506b

 

 感性か情念か、それともあまのじゃくか、素直でないのが人間というもの。しかしそれが新しいものを生む源泉となるのも確か。けれども、ひとよりも優位に立ちたいという思いが、とっさに反対に走るのも、壊れたとはいえ、それと気づかない人間の闘争本能というものであるなら、それもしかたがないか。よく言われる反対のための反対というのは、そういうことかもしれないです。

一部のジャーナリストが、反権力指向をあらわにする。あるテレビジャーナリストは、「権力監視はメディアが歴史的に担ってきた権利・義務だ」と、まことしやかに言う。はたしてメディアの思考が、超越してそれほどの信頼をおける存在かどうか、私にはわかりませんが、おそらく誰もそんなこと彼らに頼んだ覚えはいないと思います。

いまのメディアが、権力に敵対することで、いかにも庶民の味方のようなふりをして、いい子になったつもりかもしれませんが、反対ばかりで、不信感を植えつけようとあおるように見えるのは、いつまでも実りのないことだと思いますね。政治は、読みの深さ、状況判断の正しさ、世界情勢への洞察力と、それ相応の強い気力が要求されるわけで、そのときそのときで、渾身の一石を打っていくのだろうと思います。

その中にあって庶民はなんとなく、いま平穏無事にいられるわけで、そういう政治の動きを、権力だと意識することは、私にはほとんどありませんが、何か権力という言葉が、道具として使われている気がします。メディアが権力というものを忌避しながら、自らが権力志向的に陥る矛盾は、結局、メディアも一部野党も、大儀はなく、反対のための反対、つまり闘争にしか見えないです。

そういう意味で、憲法論議も政権への反対のための道具として都合よく使われているような気がしてなりません。世論はその声の大きさに多分に左右されている面もなきにしもあらずだと思います。素直に考えてみれば、この国の憲法であって、晴れてわたしたちの憲法ができるということは、喜ばしいことだと私は思いますね。

 

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