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2016年6月

2016年6月30日 (木)

流れゆくほどきれいに

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 自由な空気の中にいればいろんなものが見えて、さまざまに反応する心の動きもまた楽しいものではありますが、中には不浄な空気を送り込もうとするものもあるわけで、かならずしも視界明瞭というわけにもいかず、時代錯誤とか言いようのない軍靴の音が聞こえるというのもあり、戦争をする国になる、とあおるものもあって、酸素が不足した空気のように思考力を奪うこともあるけれども、願わくば風はさわさわと吹いてほしいものです。

「人を殺すための予算」 という発言は、あまりにひどいものですが、かれらが今まで流してきた空気は、目的のために歪められた印象操作といえなくもなく、彼らにすれば間違いであるはずはなく、ためらいなく自然にでてきた言葉であったでありましょう。自ら発した言葉に酔って、しだいに思考回路が麻痺した結果、共産党・志位委員長は、「殺し殺される・・」 という言葉を平然と使うようになり、ざわざわと風を吹かすのでありますが、それが自国を卑下することも気づかず、国をあずかる一員でありながら、自らがよそ見運転をし堕落してゆくも知らない。

その空気に触れた人たちの中には、当然とする人たちもいることでしょうが、大方の常人は、時間がたつほどに成熟するというか、何かおかしいと気づくのが常で、それが流れる川のように自浄作用できれいになるのでありましょう。

防衛の役目は、人びとの安全なくらしを維持するためのものであり、他国の意思に左右されず、しっかりと自らの意思で立つための防衛であり、それが国の支えとなり、われらのよりどころとなっていることは確かだと思います。そして、無法を押してくる彼らのことを思うなら、それを糺さずして何とする。だからこそ自国のみにあらず世界の期待を負い責任を果たす重責を担うものでありましょう。

 

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2016年6月26日 (日)

決断がよび覚ますもの

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 変化が急過ぎると未来が不確かになる。ということなら、その通り、英国のEU離脱というニュースは、まさしくこれからどうなるのか、予測を困難にしているようです。ゲームでもしているように離脱組が勝利した、とは伝えていますが、結果は不安材料の方が先に立ってなにやら、世界中を巻き込んでいるようです。

そもそも二つに一つという答えが出せるものだったのかどうか、それぞれの未来について確かなものが見えていたのかどうか、多数決でことを決めるのは、一見、合理的にみえて所詮、平均値をもとめただけのこと、意義はあるけれど、それをどう扱うかは別の問題で、最良の方法が見つかったわけでもないです。おおよそ半数の残留支持者が切り捨てられるゲームは、不合理といえば、不合理、為政者の取る道はほかになかったのかと思います。

けれども、イギリスがここで一つの決断をしめしたということは、大したものだと思います。ひょっとすると、日本はここ70年余りほどんど前に進むことができないでいるのではないか。それにくらべれば、はるかに勇気ある行動といえるでしょうか。しかし、できることなら、EUに残留して欲しかったですね。人生は重荷を負いて遠き道をゆくがごとし、急ぐべからず、といいますから、道が残されていないわけでもなかったと思います。

EU離脱というニュースをみながら、思い出されるのは、EC構想の先駆けの人といわれる、リヒャルト・クデンホーフ・カレルギー伯爵、その母親青山みつのこと、その数奇な運命を描いたNHKのドキュメンタリー『ミツコ 二つの世紀末』 を見たのは、はるか昔のことです。

光子は夫の伯爵を亡くし、女手ひとつで広大な領地を管理し、7人のこどもたちを育てたが、多くは去っていった。リヒャルトは東京生まれ幼名は栄次郎、のちに「パン・ヨーロッパ」を著した。映画「カサブランカ」のモデルともいわれる。光子はEECの母ともよばれる。光子は病にたおれ、次女オルガにみとられ、さびしく亡くなった。1941年67歳だった。
いまもひとつの映像として目に残っているのは、ロンスぺルグ城の尖塔を背景に、鯉のぼりが泳いでいた。

 

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2016年6月23日 (木)

話しは成り立つか

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 人間、まともな様に見えて、案外あやしげなこともある。強情を張るのは健康な人がいうこと、ましておおやけにたずさわるものは、健康であって強情を張ってほしい。不健康はいけない。つい気短になってしまう。国と争う沖縄の知事は、健康体かどうか見ていて心配ではあります。

さきごろ参院選にさきがけて行われた党首討論において、安保関連法の白紙化をもとめる民進党の岡田代表は、「安保関連法ができる前の状態に戻す。そのことで日米同盟がおかしくなる、という話は成り立たない。」 とおっしゃっていますが、かなりあやしげなものだと思います。

白紙化することで、前の状態にもどせることなどありえないでしょう。諸外国の中には勢いずくものもある。落胆するものもある。混迷を深め、不信がうずまき経済にもあらゆるものに影響し、不安定になるのは目にみえるような気がします。

日米同盟にかかわることで、一端決めたことを反故にすれば、おかしくなるのは確か、それが分からないはずはない。どうせ不可能と知った上で、それでもやると言ってみる。というのであれば、それは健全な姿だろうか、すくなくとも建設的にはみえないです。

 

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2016年6月20日 (月)

そのままの結末

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 何を言っても人の自由、というのもいいでしょう。しかしながら、自由というものを与えられるに、やっかいなものが人の心に忍び入る魔手にあやつられる自己過信の抑制と平衡感覚を失わせることでありましょうか。寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじるのもいいでしょう、言論の自由を貫くのも、不偏不党の地に立つのも立派です。

それらを綱領にうたっている朝日新聞ですが、していることは、すべて空文かと思わせるような、その論調になじまないような気がします。巷間言われることは、朝日と反対のことをやればいい、というのもありますが、ことあるごとにネガティブキャンペーンの繰り返しは、言論の自由を貫くに執念を燃やしています。

その氾濫はひとびとを誤導してもおかしくないです。百田尚樹さんの「カエルの楽園」は、書評が書かれないなかで、産経新聞がはじめて書評としてとりあげました。小説の舞台はカエルの世界ですが、かれらが右往左往しているのは、いまの日本と重なります。デイブレイクというカエルのしていることは、その新聞を連想させます。

それではということで、米軍とおぼしきものもは、どう動くか。デイブレイクは勇気をもたず。正道としてたださず。ただただ、そのまま、そのままと、忍従を説くのみ。その結末には、石平さんも涙したということです。

 

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2016年6月16日 (木)

歌は人生のリフレッシュ

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 人は歌にふれるとき、しみじみと心に感じることがあります。それはなぜでしょうか。人は何かに押し流されるように生きていて、ふとわれに返ったとき、元の自分に呼び覚まそうとして歌をもとめるのかもしれません。それは、たぶん無意識に変化をもとめているのかも知れません。よろこびや悲しみの情だったり、あるいは人生へのあこがれのようなものだったりします。その歌がもっている美しい言葉と旋律が、心にひびき、日常のけがれを流して清浄なこころにしてくれます。

美空ひばりの幻の映画フィルムが発見されたというニュースがありました。「南海の情火」という映画の中で、のど自慢大会のシーンで「涙の紅バラ」を唄っているということです。ひばり十二歳のことでした。涙の紅バラは、哀しい別れの歌ですが、第三者に身をおいて唄っているので、なぐさめとはげましの歌、あるいは人生訓のようでもあり、聴けば共感をよんでその仮想の中に浸ることができます。

哀しい歌ではありますが、ひばりの唄い方は軽快で、朗々として高らかで、絶叫するような高音がよくのびます。だから、この歌は、人生の応援歌のようにもきこえるのです。その歌声ののびやかさが、聞くものを勇気づけるのです。

 泣いたとて泣いて見たとて、散ってしまった花ならば、ふたたび枝に咲きはせぬ、あせてしおれた紅バラを、胸でほぐしてきょうも泣く。 泣いたとて泣いて見たとて白い夜霧か想い出は、はかなく遠く消えてゆく、・・・・

悲しい歌が必ずしも人の心を暗くするわけではありません。ままにならぬが浮世のつね、ときにはその中で人生の何かを思い、ともすればすさむ心を、ひたひたとしずめてくれのであります。そして、さわやかな気分にしてくれるのでございます。
涙の紅バラ 奥野椰子夫作詞、仁木他喜雄作曲 (昭和25年2月)

 

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2016年6月13日 (月)

ひとつの言葉の明暗

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 ひとつの言葉のイメージ次第で、みんなの気分が明るくもなり、なんとなく浮かぬ気分にもさせられます。かつての日本列島改造論とか所得倍増という言葉はポジティブでした。たしかに大きなプラスをもたらしました。さきごろNHKが、政治と報道の自由について考える集会のニュースを流していました。それは、「権力は必ず腐敗し、ときに暴走する。権力を監視する。このことがメディアの役割であり、ジャーナリズムの使命だ」という演者のそれだけの短い言葉を伝えるものでした。権力の監視というのは、ネガティブのイメージが私にはします。

為政者に必要なのものは、ひとことで言えば、洞察力と平衡感覚ということもできましょうか。権力を監視する、と彼らがいうならば、それに勝る技量をもち、かつ平衡感覚を計る基準がはっきりしている必要があるでしょう。しかし、それは人それぞれでありますから、結局、何となくおかしいのではないか、という世論調査の数値が、監視の役割を担っているのではないでしょうか。

ジャーナリズムの使命、というのは飛躍のし過ぎでしょう。政治の役割がポジティブであるなら、ジャーナリズムがネガティブな役割を担うのも、それなりの意味があるけれども、ほどほどというものがあるでしょう。かつて石原慎太郎さんは、「メディアはものを壊そうとすることには熱心だけれども、ものを育てようという意識はないんでね」、と言っていましたが、最近はメディアに限らず、ものを壊そうという勢力も政党も中にはあるようです。

それでも、ポジティブ指向に行けば元気になれそうな気がするのでございます。折りに触れ思いだす童謡は、子どものためだけではなく、大人にも情操をゆたかにしてくれるのでございます。
しゃぼん玉とんだ、屋根までとんだ、屋根までとんでこわれて消えた。かぜかぜ吹くな、しゃぼん玉とばそ。野口雨情 1923年(大正12年)

 

 

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2016年6月 9日 (木)

世のありさまの異様

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 日本人の最大の弱点は優しさ、というひとがいましたが、まさに急所をついていると思います。ひとを思いやるという美点が実は弱点というわけですから、それは盲点をついているのでした。優しさは、つまり人を信じるということでしょう。とかく、そのように、世評に流されやすいのがわれらの弱点でもあります。田原総一朗さんは、テレビでの偏向報道は問題なしと思っているようです。

その理由は、選挙で自民党が3連勝している、とくりかえし言っています。つまりテレビの偏向は、自民党の選挙に影響していないから、問題ない。むしろテレビがだらしない。といっています。しかし、過去の選挙の結果と、現在時点における政局への論点の偏向は、別次元の話しでありますから、同列にはできないわけで、これは田原さんの苦しい言い訳、ごまかしだと思います。

最近のデモによるフリップの瞬間映像を映す報道の手法のように、筋道ではなく、単純なことばの繰り返しというのは、おそろしいものがあります。知らず知らずに影響を受けずにはいられないです。一種の洗脳状態にされてしまう。国旗を掲げることは、本来うれしいはずですが、わけも分からずためらわれる、ということに、いつの間にかなってきた。これもネガティブな情報の氾濫の影響でありましょう。

テレビというのは、日本人の最大の弱点を突いて、少なからず不特定多数への刷り込みをあたえる力をもっています。今日も街頭にただひとり男が無言で立っていた。「九条を壊すな!」というフリップをかがげていた。裏面には「アベ政治を・・」の文字がちらりと見えた。その顔はゆがんで見え目が射すように見えた。それがテレビの映像とかさなって強烈なイメージをあたえる。そういう今の世のありさまは何か異様さを感じます。

日本は自由主義陣営の国という道を選択しているわけですが、そこには、少なからず社会主義的陣営を志向する分子が存在します。いってみれば、一国の操縦において、そういう反分子が勢いを増せば、国の航海はおそらく難航するでしょう。現に難航しながらもかろうじて前に進みはしましたが、予断はゆるされません。

このほど沖縄の県議選において、共産党の支持を受ける翁長知事を支持する勢力が、過半数を維持したということも、米軍に関係づけた事件が繰り返し流される沖縄のテレビと新聞の情報が、影響したと言われます。

いまや、ことあるごとに、メディアによって日本が攻撃にさらされていると言ってもいいと思います。しかし、そんなおかしなことも、もうあきあきした気分があるのも確かでありましょう。

 

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2016年6月 5日 (日)

虚言を吐くもの

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 事実は自ずと歴史に痕跡をのこします。まして未曾有の体験は、なおさらのこと、そこから歴史が始まるのです。一方、虚構は、想像の産物であり、永い空白の後に、意図して事実の歴史であるかのように仕立てあげられる。中国の外相は、「広島は注目を払うに値するが、南京は更に忘れるべきではない」、と記者団に述べたと伝えられる。

事実は、ことの是非にかかわらず、後の世の教訓を与えるが、虚構は、自他ともに愚弄という深き淵に沈める。虚構をもって攻撃すれば、その信はがらがらと崩れ去るを彼らは知らない。虚言を弄するもの、深き淵に落ち、もはや浮かぶ瀬はなく、手をさしのべるものは誰もいなくなる。

広島と南京は、更に同列にあらず。渦中にいて事後三十有余年を生きた毛沢東は、そのことを語らず。無実の下に、もとより信じるに足る証拠もない。いまの中国支配層には、道徳も人権尊重もどこにも見あたらない。その治世下には抑圧はあっても、民主主義も自由もない。自由のないところに真実などあるはずもない。

何を信じるかといえば、罪なきものを無体に殲滅するような発想は、彼らの歴史の深層の中に想起するものがあって、それが日本人へと転嫁する想像の産物と化すことがあっても、日本人の中にそんなものは、いかにしてもありはしないし、起こり得ない。それで充分だ。

 

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2016年6月 1日 (水)

当たり前という落とし穴

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 あたりまえという先入観に落ちると、容易にぬけだすことができない。あたりまえは、動かし難いものをもっている。しかしあたりまえ、と言い切るには,確かな未来が約束されなければならないです。先ごろ、当たり前のことがなぜ分からないのか、と政策を批判した方がいらっしゃいましたが、当たり前とおっしゃるからには、その結論は、そのお方の確かな活力となっているのでございましょう。いきおい言葉は命令調になりますね。

一つの観点から見れば、この答えしかあるはずがない、という単純で明快な答えになるのでございましょう。しかし世の中、先のことについて、当たり前などと、そんなにたやすくあるものでもないのでございます。それが、感情と主観によって固まったものなら、ごく限られた角度から見たに過ぎないと思いますね。なぜなら、主観に反するものは、少なからず感情によって拒絶される運命にあるといわれます。

当たり前だろ、誰が考えても、と偉いひとから、言われれば、何だかやるせない気持ちになることもあるのでございます。必ずしも当たり前の中に、真実が宿るとは限らず、かれがまとっているものは軽いものでございましょうか。当たり前という言葉は、発する側にとっては、隠れ蓑のようなもの、受ける側にとっては、めくらましのようなものかも知れないのでございます。

 

 

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