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2016年6月 5日 (日)

虚言を吐くもの

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 事実は自ずと歴史に痕跡をのこします。まして未曾有の体験は、なおさらのこと、そこから歴史が始まるのです。一方、虚構は、想像の産物であり、永い空白の後に、意図して事実の歴史であるかのように仕立てあげられる。中国の外相は、「広島は注目を払うに値するが、南京は更に忘れるべきではない」、と記者団に述べたと伝えられる。

事実は、ことの是非にかかわらず、後の世の教訓を与えるが、虚構は、自他ともに愚弄という深き淵に沈める。虚構をもって攻撃すれば、その信はがらがらと崩れ去るを彼らは知らない。虚言を弄するもの、深き淵に落ち、もはや浮かぶ瀬はなく、手をさしのべるものは誰もいなくなる。

広島と南京は、更に同列にあらず。渦中にいて事後三十有余年を生きた毛沢東は、そのことを語らず。無実の下に、もとより信じるに足る証拠もない。いまの中国支配層には、道徳も人権尊重もどこにも見あたらない。その治世下には抑圧はあっても、民主主義も自由もない。自由のないところに真実などあるはずもない。

何を信じるかといえば、罪なきものを無体に殲滅するような発想は、彼らの歴史の深層の中に想起するものがあって、それが日本人へと転嫁する想像の産物と化すことがあっても、日本人の中にそんなものは、いかにしてもありはしないし、起こり得ない。それで充分だ。

 

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