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2016年7月 4日 (月)

待ち過ぎた時間

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 不意に起きる変化は、チャンスでもありますが、日本人はその変化に対して打算が働かず、変化をどう受け入れるか、ということから始めると言っていいと思います。よくいわれる日本人の秩序も冷静も、打算が働かないための結果ということもできましょうか。

それは、たぶん、古来から身についた常に受け身の習性が影響しているかも知れません。その受け身の姿勢が、よく言えば、純真、多分に外の影響を受けやすいということでもあります。たとえばいまの憲法は、先の戦争がもたらした結果の表徴そのものだと思いますが、受け身の姿勢がいつのまにかそれを忘れさせているのではないか、と思います。

それはともかく、いま参議院選挙のさ中、野党陣の攻勢をみていると、受動性の中から見出された変化に対する打算が見え見えのような気がします。打算は両刃の剣、ともすれば自分を危うくします。変化の結果を見てあれやこれや言うことは、たやすいことですが、反対することはあっても未来をどうするという能動性のことばは聞こえてこないような気がします。能動性は創造性を必要としますが、技術立国といわれる日本、根っからの日本人なら、それをもっているのは確かだと思うのです。

野党の反対論は、ただただ不確かな不信という前提に立っているとし言いようがないものに見えます。その不確かな不信というものは、受け身の産物、内外といわずその反日的な言葉の攻勢の影響を受けているような、気がします。成熟するには、時間を待つことが必要ですが、もう待ち過ぎた感じがします。「わたし待つわ、いつまでも待つわ、」というかつての歌のフレーズは、とてもきれいな言葉です。待ってくれている安心感があります。でも、そろそろ、お待たせしました、という言葉を聞きたいものでありましょう。

 

 

 

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