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2016年7月 7日 (木)

客観性を失った虚勢

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 批判と罵声はまったく違う。批判は少なくとも対論をなすことで成り立っている。罵声は、誹謗中傷であり暴力に等しい。公衆の場ならなおさらにその罪は深い。片山さつき氏の街頭演説において、20人ぐらいの男女集団によって、選挙演説が妨害をされたということです。演説の間ずっと罵声をあびせていて、同行した人の話しによれば、尋常ならぬ雰囲気で、身の危険を感じるほどだったといいます。

その集団は、『アベ死ね』、『戦争法反対』、『脱原発』、などと書かれたプラカードを持ち、『やめろ!』、『片山帰れ!』、『黙れ!』、などと口ぐちに叫んでいたという。それは目に見えるような気がしますが、激昂して、相手をさげすみ恫喝する、威嚇する、その怒りはどこからくるのか、何のために演じているのか、身についた習性なのだろうか、見ようによっては実に悲しい情景でもあります。

そのようにして衆目の前で、恥じもなく、度が過ぎて虚勢を張る挙動は、日本には無かったといえましょう。人はなぜそのように悪口をいうのか、それは自己の正当化に他ならない。しかし、自己正当化は、自己に都合よくても、それだけのことしかないです。他者には他者の自己があるからです。だから自己正当化は心の底に沈め、なだめおくべきものでありましょう。

その激昂の底にあるものは、バングラデシュの首都ダッカで起きた、いたましい事件と同じものを見るような気がします。そこには、水に流して清浄になることを知らず,協調性はさらさら無くて、客観的な視点をもちえない性のようなものがみえます。

 

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