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2016年7月

2016年7月29日 (金)

何かが欠けた誤解

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 寒々とした殺傷事件が起きる。正解のない問題に、間違った答えをだして、その決断によって行動をすることの愚かさは,それによって起きる先の予測をもたず、ただ身の破滅をまねくを知らずか。人は遥か遠い祖先より受け継がれてきた生命体であって、この世に生を受けたときから、だれしも尊厳を有している。優れた脳も病に倒れば幼稚化する。歩くほどにたとえ輝きをなくしても、また、いかに汚れていようとも、あるいは脳の生成の如何にかかわらず、ひとはみな人類の同胞として個々の人間の尊厳は失われることはない。

だから、無暗に、人の一存で人を殺めてはいけない。かれの間違ってはいない、正しいことをしている、という思いは、人に迷惑をかけないのであれば、それはそれで進むがいい。しかし、その確信が、何かが欠けた誤解というものなら、それを社会の中で試そうとすれば、迷惑この上ない結果をまねく。個々としては、いかに確信に満ちていようとも、その個人が見た世界は、全体で見ればほんの知れたもの、しかも、よくも悪くも感受性の影響を受けずにはいられないはず。

不意の災難は痛ましいですが、おそらく容疑者が見た職場経験の印象は、その身に耐えられなかったのではないかと思います。かれは動揺し、心の準備ができていなくて、しだいに魔手にとらわれていったのかもしれないと思うのです。しかし、犯した罪の異様さは、計り知れない何ものかが、ひそんでいるような気もします。

 

 

 

 

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2016年7月26日 (火)

緩和されるべき鍵

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 情勢の不穏をまねいたは、法も道義もあらばこそ、横暴にも九段線を引き南シナ海の全域をわがものともくろむ不法の限りの中国にある。ロイターの配信(25日)によれば、ラオスにおいて中国の王毅外相は、「南シナ海をめぐる国際的な緊張状態は緩和されるべきだ」と述べたと伝えられる。「緩和されるべき」という受身の姿勢は、責任転嫁をはかるいつものやり方、正々堂々とした潔さはみじんもない。

仲裁裁定の判決は、ガーナ、スランス、ポーランド、ドイツ、オランダ、などの専門家5人の仲裁人でなされ、九段線の根拠は見出されず公平で正しいことは確かとなれば、ここは裁定に服するほかなく、それが、欧米に伍する常任理事国の責任というもの。緩和されるべき鍵は自らがもっている、それ一つしかない。機をみるに疎し、出し惜しんで無理押しするは、おそらく信はさらに落ちるしかないでありましょう。

 

 

 

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2016年7月24日 (日)

アオバトの飛来を待つ

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 青い鳩が海の水を飲むという不思議、大磯の照ヶ崎の磯には、夏になると青い鳩が、丹沢山地から日に幾度となく群をなしてやってくる。岩のくぼみに溜まった海水を飲むことで知られている。生き物の生命の神秘、健康体を維持するために、その小さなからだが欲するのであろうその本能のメカニズムは、見事というか素晴らしさを思わずにはいられない。ナトリウムやカリウムが、かれらのからだになくてはならないものなら、鳥といえども、人体のしくみとかわらない。

青い鳩たちは、何を思いここにやってくるのか、何を知っているのか。ときには、岩にくだける荒波の中に没し、危うしと思う時間のあとに、波間からはばたいて出てくる力強さにほっとする。朝はやく、今日もひとびとは、遠く水平線を背景にする岩舞台に、やがて、宙に弧を描きながら降りてくる青い鳩たちを、静かに期待しながら待っている。

 

 

 

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2016年7月19日 (火)

否定された勝手な線引き

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 古来、中国は、海洋、島にはまったく関心がなかったというのは、ほんとうのところだろうと思いますね。中華思想という自己中心に心酔して、周辺を辺境としてさげすんでいれば、都から遠くはなれたけがらわしい辺境、何の価値もない海のかなたに関心がないのは当然だろうと思います。いまの中国はことあるごとに、「南シナ海の南沙、西沙諸島は、2千年以上前に中国が発見し、管轄下に置いた」というけれど、2千年前には中国はなかったのではないか、2千年という言葉をもちだすのであれば、もうそれを台無しにするに等しいです。

そのむかし宋という国や、時代ごとに唐、明、清などという国が破れては消えていった、そのころは航海術は未発達で、はるか万里の波涛にさえぎられた無人の洋上に中華の秩序も統治もおよぶはずもない、その意志もなかったのは確かだと知れています。習近平国家主席は、「中華民族の偉大な復興」を掲げるけれども、自分で偉大というのもおかしい。夢をみていまも王朝支配へのあこがれが息づいているのであれば、何という古い時代に生きていることかと思います。

南シナ海における中国の主張に対するオランダ・ハーグの仲裁裁判所の判決は、中国が海の上に勝手引いた九段線を根拠のないものとして全面的に否定するものでした。中国は、裁定は無効で拘束力がない。受け入れない。ただの紙くずだ。と言っていますが、身からでた錆だからなおさらに、怒りと不満をあらわにしましたが、もっとじっくりと落ち着いて対処できなかったのか、大人げないふるまいにみえます。

新しい価値は分かってはいるが、すぐには身につかない悲しさに、偉大な復興が目にちらついて、行動がいうことをきかないような。まだまだ道のりは険しいが、学ぶ時間は充分にあるはず。その結果をまねいたのは、当然の帰結として不徳という原因があることを知るのはいつのことでありましょうか。

 

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2016年7月15日 (金)

近い近い夜明けは近い

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 とかく、やることなすこと、そんなにうまくはいかない。その道はてしなくとも、人生は試練を越えてゆくところに喜怒哀楽があるのでありましょう。いつのときも、ふと一息ついてふりむけば、遥かになだらかなすそ野がみえ、もはや、きた道は遠い景色にうもれています。越し方は楽しからずやといいます。人生は、あとふり返るために進むのかも知れないです。

「銀色の道」という歌は、明るい希望の道をめざす歌でしょうか。軽快なメロディーで、遠い遠い、ひとりひとり、と言葉のリフレインがうつくしい。・・・はるかな道はつらいだろうが頑張ろう、苦しい坂も止まればさがる、つづくつづく明日もつづく、銀色のはるかな道。ザピーナッツにしかできないきれいなハーモニーは、万人に親しまれ人々の心をいやしてくれました。まるでその役目を背負って生まれてきたかのようなお二人でした。ほんとうにありがとう。伊藤エミさん、伊藤ユミさん、昭和16年4月に生まれ、ひとつの時代をなしたのでした。

 

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2016年7月13日 (水)

余計なお世話もほどほどに

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 言葉で言ってしまっては、伝わらないこともありますね。品性がそなわっているなら、その人の存在そのものが、ものをいうこともあるけれど、むやみに内容がなくて、語気鋭いだけの言葉は、返って共感を呼ばないんじゃないかなあ。「アベ政治の暴走を止める」、と野党勢は、歩調を合わせていましたが、それが、参議院選挙で、劣勢に立たされる原因だったんじゃないかなあ。暴走という言葉のいかがわしさ、着た切り雀のように、いつまで薄汚れた服を着ているのでしょうか。新しい服に着替えたなら気分も明るくなるんじゃないかと思いますけどね。

その目にアベ政治が暴走しているように見えるなら、それもよろしいけれど、でもね、庶民にしてみれば余計なお世話だったかも知れませんよ。なんだか自意識過剰の押しつけのようで、逆効果じゃないかな、と思いますね。

選挙が終わったら、またしても、弁護士グループが一票の格差を持ち出して無効だといっているようですが、これも余計なお世話、いい迷惑と言いたいところ、彼らの目論見は、都市部において革新系の票がのびるという思い、それだけを狙っているような気がしますけどね。一票の格差ってほんとうに計れるものなんですか。いやね、一票にどのくらいの価値があるかということなんですが。かつての三年余の政権交代を思いだしますけどね、個々の一票によって善政か悪政かを左右するのであって、あのときの政治が右往左往するさまを見てみれば、一票の重みって軽いものだった。

一票の中には、まじめな一票もあれば、組織票もある、浮動票もある、一票の重みは、いろいろなんだと思うんですね。つまるところ、一つには、得票数にそれぞれ等しく価値があるわけではないということ。二つには、当選した人たちもピンからキリまであって、価値といっては失礼だけど、その人たちの価値はそれぞれ異なるんじゃないかなあ。憲法十四条、すべて国民は、平等であって差別されない。一票の格差がこれに抵触するというのは、やり過ぎている。やり過ぎているんじゃないかなあ。

 

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2016年7月10日 (日)

今は昔、七夕と牛洗い

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 ふるさとの広い夜空に浮かぶ天の川は、あわく流れている。遠い記憶の中に浮かんでくるひとつの風景は、姉さんかぶりの人が一頭の牛をつれてきて裏山の柿の木につないで帰っていく、牛は、その人が見えなくなるまで、うしろ姿をじっと追っていた。牛は何を思っていたのか、たぶん残されて淋しかったのであろうか、牛の気持ちが分かるような気がして、その風景をいまに想い出す。

そのころ、瀬戸内の農家では、田起こしや代掻きには、牛は無くてはならない存在だった。ぬかるむ田んぼの中で、足をとられながら牛は鞭で追われて辛い仕事だったと思う。農家の人は、七夕の日になると、牛を海辺につれて行ってきれいに洗ってやっていた。こどものころそれを見ていたが、なぜ七夕の日にするのか知らなかった。

いま、想えば、あれは牽牛星(彦星)になり替わって牛の面倒をみてやっていたのだと思う。天の川の水で、さっぱりときれいに流してやり、労苦に感謝する。牛を大切していたのだろうと思う。その牛たちはいまはいなくなった。いつの日だったか、ふるさとの庭先に立って天の川を見上げたとき、その雄大さは新鮮な感覚だったのを想い出す。

 

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2016年7月 7日 (木)

客観性を失った虚勢

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 批判と罵声はまったく違う。批判は少なくとも対論をなすことで成り立っている。罵声は、誹謗中傷であり暴力に等しい。公衆の場ならなおさらにその罪は深い。片山さつき氏の街頭演説において、20人ぐらいの男女集団によって、選挙演説が妨害をされたということです。演説の間ずっと罵声をあびせていて、同行した人の話しによれば、尋常ならぬ雰囲気で、身の危険を感じるほどだったといいます。

その集団は、『アベ死ね』、『戦争法反対』、『脱原発』、などと書かれたプラカードを持ち、『やめろ!』、『片山帰れ!』、『黙れ!』、などと口ぐちに叫んでいたという。それは目に見えるような気がしますが、激昂して、相手をさげすみ恫喝する、威嚇する、その怒りはどこからくるのか、何のために演じているのか、身についた習性なのだろうか、見ようによっては実に悲しい情景でもあります。

そのようにして衆目の前で、恥じもなく、度が過ぎて虚勢を張る挙動は、日本には無かったといえましょう。人はなぜそのように悪口をいうのか、それは自己の正当化に他ならない。しかし、自己正当化は、自己に都合よくても、それだけのことしかないです。他者には他者の自己があるからです。だから自己正当化は心の底に沈め、なだめおくべきものでありましょう。

その激昂の底にあるものは、バングラデシュの首都ダッカで起きた、いたましい事件と同じものを見るような気がします。そこには、水に流して清浄になることを知らず,協調性はさらさら無くて、客観的な視点をもちえない性のようなものがみえます。

 

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2016年7月 4日 (月)

待ち過ぎた時間

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 不意に起きる変化は、チャンスでもありますが、日本人はその変化に対して打算が働かず、変化をどう受け入れるか、ということから始めると言っていいと思います。よくいわれる日本人の秩序も冷静も、打算が働かないための結果ということもできましょうか。

それは、たぶん、古来から身についた常に受け身の習性が影響しているかも知れません。その受け身の姿勢が、よく言えば、純真、多分に外の影響を受けやすいということでもあります。たとえばいまの憲法は、先の戦争がもたらした結果の表徴そのものだと思いますが、受け身の姿勢がいつのまにかそれを忘れさせているのではないか、と思います。

それはともかく、いま参議院選挙のさ中、野党陣の攻勢をみていると、受動性の中から見出された変化に対する打算が見え見えのような気がします。打算は両刃の剣、ともすれば自分を危うくします。変化の結果を見てあれやこれや言うことは、たやすいことですが、反対することはあっても未来をどうするという能動性のことばは聞こえてこないような気がします。能動性は創造性を必要としますが、技術立国といわれる日本、根っからの日本人なら、それをもっているのは確かだと思うのです。

野党の反対論は、ただただ不確かな不信という前提に立っているとし言いようがないものに見えます。その不確かな不信というものは、受け身の産物、内外といわずその反日的な言葉の攻勢の影響を受けているような、気がします。成熟するには、時間を待つことが必要ですが、もう待ち過ぎた感じがします。「わたし待つわ、いつまでも待つわ、」というかつての歌のフレーズは、とてもきれいな言葉です。待ってくれている安心感があります。でも、そろそろ、お待たせしました、という言葉を聞きたいものでありましょう。

 

 

 

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