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2016年8月

2016年8月31日 (水)

ナイーブな感性

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 ひそかに自分の才能に自負があるにせよ、上には上があるもので、負けるときは負ける。プレバトというタレントの才能のランク付けをするテレビで、歯に衣きせぬ毒舌と言われる俳句の夏井先生の査定にかかっては、さしもの梅沢名人も脱帽するしかない。先生の論理と感性で昇華された表現とウイットには、感服するところが多い。

梅沢名人の自負が顔にでて、査定に対する落胆ぶりとの落差が、視聴者を笑わせる。さすがは役者、本領をよく発揮しておもしろおかしく進行する。その梅沢名人が、絵手紙のコーナーで、夏井先への絵手紙を描いていた。ほんのり赤く色づいておいしそうな桃の絵がうまい、文は、「けっこう傷つきやすいのです」、というものだった。絵と文がよくマッチして素直なこころもちが出たようだった。

人間、芯は強そうにみえても、だれしもナイーブな心の感性はもっているもので、多くの視聴者のまえに手きびしい批評にさらされれば、内心つらいものがあるが、俳句は才能なくしてできないから、余人にはできないという称賛は、おのずとあるだろう。つまり、先生は、厳正にその作品を評価したのであって、人を批判したわけではない。

ところで、先ごろ、民進党の蓮舫氏は、つぎのように語った。
 「ここが大事なのでぜひ編集しないでいただきたいのですが、私は岡田克也代表が大好きです。ただ、1年半一緒にいて、本当につまらない男だと思います。人間はユニークが大事です。私にはそれがあると思います。」
確信的に、ことさらに人を悪くいって、自画自賛して優位におくやりかたは、もうバラエティー番組にみえます。ほんとうにあなたはユニークな人です。

 

 

 

 

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2016年8月27日 (土)

夏のなごり

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 どちらかといえば、冬の寒さより夏の暑さの方が好みですね。太陽がいっぱい、という映画がありましたが、あれは青い海を走るヨットが舞台、音楽はゆっくりとしたテンポの繰り返しで、逆転の結末を案じさせるような感じでしたが、ぎらぎらとした夏のイメージがありました。

やっぱり夏はまぶしいように、明るいのがいいです。太陽がいっぱいで、身に射すように照りつけてこそ夏、芝生は青々と映え、樹々もうっそうとして緑陰をつくります。とりわけ田んぼのみどりが一面に広がっているさまは、空と里山が溶け込んで、夏ならでの、なかなかの日本の風景です。

きのうはそんないい天気でしたが、きょうは一転して、時おり雨がぱらつく曇り空です。早や、夏のおわりか、何んとなく惜しまれるような頃になりましたが、いますこし夏のなごりを感じていたい気がします。

 

 

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2016年8月24日 (水)

ままにならぬが世の常

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 人は経験によって知識を身につける。一昔前にくらべれば、いまは多くの知識を持つようになったと思うが、やはり炭酸水のように、時間とともに気がぬけていくのは仕方がないのだろうか。知識は豊富になったが、一方で大切なものが、知らず知らずになくなっていくような気がしている。

本来、ゆったりしているべき時間の観念というか、忍耐というべきか、いや忍耐は自意識が勝ちすぎる、落ち着きとでもいうのであろうか、そんなものを見失ったようだ。俗に言うキレるということの結果のむなしさは、打たれ弱いと言うべきか、現実から逃げ出すと見るのがいいか、結果を急ぐ、手っ取り早いやり方は、結局、自他を問わず害をなす。性急な行動に走る傾向がわざわいとなり、事件を起こすように見える。

今は、自我の欲求にたいする我慢づよさが、時として失われたように思う。けれども、思慮をわすれ、感情のおもむくまま、思惑を優先して、すぐに行動に出てしまい勝ちなのは、自分を素直にさらけ出している、という意味において、まったく無防備である。愛すべき、自分の人間らしさでもある。

押さえつける圧政もない、あらゆるものが機械化、省力化されてきて、便利さを手にいれた。あとは娯楽をもとめることしきり、かって汗を流し、生きるための労力を惜しまなかった時代にもっていたものを、いまは失ったのではないだろうか。満たされた豊かさがそうさせているのか、テレビにも一因があるやも知れぬ、頻繁にでてくるCMは思考を分断し、インターバルは短くなる。根気がつづかなくなった道理とも言えるのではないか。

そうではないなあ、ものごとは自己から発するものだから、やっぱり責任転嫁はだめと思う。分かってはいるけれど、精神のコントロールは中々思いどうりには、いかないなあ。

 

 

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2016年8月20日 (土)

問われるべきは

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 なにごとも活力なくして、心身ともにすこやかではいられない。だれしも、泉から湧きあがる清水のように、人生の可能性について、つきない興味をもっている。自分のためであれ、ひとのためであれ、なにごとでも、闘志をもやす姿はひとのこころを打つ。

リオデジャネイロ五輪のレスリング女子は、6階級のうち4階級で金メダルを勝ちとった。鍛錬を重ねた心身と技で、互いに身体ごとぶつかっていく、両者はげしく躍動感あふれる姿は、見るものに清々しく雑念をわすれさせる。なによりも素手で戦うのがいい。闘志あるものをみれば、青春ともいうべき血潮がそこにある。

いま世情をみれば、71年が過ぎようとして、いまだに侵略かどうかを問うよりも、九条はバイブルだといってしがみつくよりも、いま問われるべきは、いかにして、この国の活力を高め維持していくか、声をあげるときではないだろうか。

そして、活力と良識をもって、フェアに戦うときではないのだろうか。惑わされることなく、胸を張らないどうする。闘志なくしては、もろともに沈みゆくだけかも知れない。と思うのであります。

 

 

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2016年8月16日 (火)

目覚めるということ

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 蝉しぐれがさわぐ夏がきて、終戦の日におもうことは、こころおだやかにして、ただ鎮魂と感謝のきもちをささげればよいとおもう。そして誓いを新たにすればよいとおもう。終戦の日にあたり、各政党は、それぞれに談話を表明していますが、前提条件を異にすれば、こうも違うのかというほどにあ然とするものもがあります。ただただ、日本人自身を信じているか、信じていないか、によってその表明する内容は、分かれるような気がします。

それぞれの判断は、観点にもとづいてなされる。観点は、一つとはかぎらない。多くもてばそれだけ視野は広いといえる。広い観点にもとづく判断は、よりよい結果に向かう。しかし観点は、もっている知識の中から取り出され、かならずしも万能、不偏というわけでもなく、その上に、思想と信条、利害と好悪の感情に走れば、視野はすっかり狭いものになってしまう。

その分、判断は容易となり、その判断が最善であると信じる力はつよい。公明、民進、共産、社民、生活、の各党の談話はひとことでいえば、前提条件が自虐におちている。観点を広くもつ、心の大らかさがない。

一方、日本のこころを大切にする党の談話は、ひと味違っていた。周囲環境に脅威があるという認識にたって、「平和と繁栄は自らの努力によって維持すべきものであるとの覚醒が必要です」とのべている。ほんとうに、中韓のことをおもうなら、われらが覚醒しないかぎり、中韓が目覚めることは、のぞむべくもない、とおもうのであります。

 

 

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2016年8月12日 (金)

称えられる人への証し

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 才能あるものがそれに打ち込む姿は美しい。その結果として心技体の並々ならぬ努力の結晶は、本人のみならず人々によろこびをあたえます。五輪柔道90キロ級で、ベイカー茉秋が、金メダルにかがやきました。70キロ級の田知本遥も金メダルを獲得しました。それをテレビで何回も見ました。人格を養うことを旨とする日本の武道の流れにある五輪柔道で、金メダルを得たことは、とくによろこばしいものです。

柔道女子57キロ級では、ブラジルのラファエロ・シルバ(24)が金メダルをとりました。シルバは、「柔道が私の人生を変えてくれた」と語り、日本人コーチ藤井裕子さん(38)から3年あまり指導を受けて、「彼女が私の技を高めてくれた」と感謝をあらわした。というのもまた、ブラジルの人たちに勇気を与えるもので、このニュースもうれしい。

内に目を転ずれば、先の新閣僚に聞く、というweb版のニュースにおいて、稲田防衛相への記者の質問は、どこまでおめでたいのか、という気がしました。「侵略戦争だったと思うか、思わないか」と執拗に食い下がっているが、稲田防衛相は、その手にのることはありませんでした。侵略か、侵略ではないか、は事実ではなく、それは評価の問題であり、この場は歴史論争をする場ではない、として、最後に、あの、そういう単純な質問はないと思うんですね、と記者をたしなめました。

力の強いもの、勝者が正しかったと言い切れるはずもなく、歴史の必然とした流れであって、それを経験しなければ世は、先に進めなかったのではないかと思うのです。記者の心の底に流れるものに憐れみを感じます。

それぞれの表彰式において、国家の演奏とともに日の丸掲揚の瞬間を目にすることは、選手にとってそれこそ感無量のものがあるだろうと思いますね。それが最大の称賛の証しになるだろうからです。テレビは、それをあまり映していないような気がします。それがものたりない気がします。

 

 

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2016年8月 8日 (月)

人生あっという間に

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 今週の真田丸は、太閤秀吉が、まだ幼い秀頼の行く末を案じながら亡くなりました。どこかおかしみがあって、悲しみはないけれど、ストーリーは、家康の暗殺未遂や遺書をめぐる駆け引きなどがあっておもしろい。秀吉の辞世の句は、

  「露とおち露と消えにしわが身かな難波のことも夢のまた夢」

というものですが、難波のこと、と地名が入っていることで、何んとなく明るいような、親しみが感じられます。

たぶんですが、秀吉は、いま思えば人生はあっという間のことだった。難波のこともつぎからつぎへと夢のように過ぎ去った。わが人生は充実していた。楽しいものだった。と言っているのだと思います。露と落ち露と消えにし、とは中々でてこない発想だと思います。この句は、人生を一瞬のできごとのように見ていますね。一生過ぎやすし、ということでしょうか。

これって、どこかで聞いたことがあるような。そう、秀吉は、白骨のご文章を読んでいたのではないでしょうか。おおよそ儚きものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり、一生過ぎやすし、われや先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露より繁しと言へり。・・・とつづくあのご文章です。

葉の先についた露が消えゆく様子を、「露と落ち露と消え」とよみ、まぼろしのごとくなる一期を、「夢のまた夢」と絶妙な言葉に変えて詠んだのではないでしょうか。人生の悲哀ではなく、わが世の春、いい人生だった、と言っているような気がします。

 

 

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2016年8月 5日 (金)

発想のすれ違い

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 良識あるものの靖国を思う心は、雑念も欲心もない。倒れた人たちよ安かれと思う純粋な心と感謝の心あるのみ。だから静かなるものであって欲しい。けれどもことあるごとに内外ともにこの国への風あたりはやむことがない。いままで、読売、朝日、毎日、日経は、そろって、その中韓の言動を是として、いい人でありたいとするがゆえに、靖国参拝について日本の自重をもとめる考えを表してきた。

しかしその軋轢は、年月がたつほどに互いの思いのすれちがいにあるような気がしてくる。いま中国は国際法の精神を理解しえず南シナ海において、わがもの顔で覇権の野心を隠そうとしない。「china2049」によれば、中国が考えている日本の為政者が、靖国に参拝する目的は、日本が中国への侵略を進めるために、日本人の精神をひとつにまとめるためのもの、とする中国人アナリシストの分析を紹介している。

かれらは日本が軍事力を増強すれば、制御できなくなる、と考えている。ここからみえるものは、自分たちが考えていることは、潜在的に日本も考えているだろうというかれらの発想がうかがえる。つまり、靖国参拝が強い日本をよみがえらせる、それを中国はとても恐れている、といえる。

そうであるなら、発想のすれ違いにちがいないが、裏を返せば、中国は日本への侵略を夢みているということか。あるいは、いつか日本が攻めてくる日がくると本気で思っているのでないか。ヒラリー・クリントン氏は、中国は世界で数少ない信仰のない恐ろしい国で、全国民が崇拝するのは権力と金銭のみだ、とハーバード大学で演説しているという。

ならば参拝が、全中国人の心に傷つけているとも思えない。結局、かれらはとても古い時代に生きているのではないかと思えてくる。
「中国よ。君は間違っている。」、良識と信頼というものほど、大きな力はないということを学ぶべきだ。

 

 

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2016年8月 1日 (月)

夏の記憶

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 さして夏らしい痛いように照りつける日々もなく、早や8月になった。遠いむかし、夏休みになると郷里の広島に帰省していた。あるとき、山陽線のひと駅前で降りて山越えをして歩いたことがある。だれひとり通らない山道は、歩いても歩いても、うぐいすの透き通った声が聞こえていた。それは新鮮でさわやかな気分だった。

いまふるさとの青空を想いうかべれば、みどりの田んぼにそよぐ風、海につづく一本道、湧きあがる雲、夏草が身の丈まで茂っている。その中でキリギリスがチョン、ギースと鳴いている。まるで時間が止まったような、白昼の静かな空間がそこにあった。けだるいような眠くなる夏の午後、キリギリスの声は、ゆっくりと時を刻んでいるかのようだった。

最後に聞いたのは、いつだったかあのころから時が流れた。先日、教育テレビで「禁じられた遊び」のギター演奏を聴いた。この曲もよく練習していた。いま聴けば、時間の流れを象徴しているようにも聞こえる。それぞれに物語の軌跡があるように、哀愁のある旋律は、遠い何かを思い出させるような気がします。

 

 

 

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