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2016年8月16日 (火)

目覚めるということ

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 蝉しぐれがさわぐ夏がきて、終戦の日におもうことは、こころおだやかにして、ただ鎮魂と感謝のきもちをささげればよいとおもう。そして誓いを新たにすればよいとおもう。終戦の日にあたり、各政党は、それぞれに談話を表明していますが、前提条件を異にすれば、こうも違うのかというほどにあ然とするものもがあります。ただただ、日本人自身を信じているか、信じていないか、によってその表明する内容は、分かれるような気がします。

それぞれの判断は、観点にもとづいてなされる。観点は、一つとはかぎらない。多くもてばそれだけ視野は広いといえる。広い観点にもとづく判断は、よりよい結果に向かう。しかし観点は、もっている知識の中から取り出され、かならずしも万能、不偏というわけでもなく、その上に、思想と信条、利害と好悪の感情に走れば、視野はすっかり狭いものになってしまう。

その分、判断は容易となり、その判断が最善であると信じる力はつよい。公明、民進、共産、社民、生活、の各党の談話はひとことでいえば、前提条件が自虐におちている。観点を広くもつ、心の大らかさがない。

一方、日本のこころを大切にする党の談話は、ひと味違っていた。周囲環境に脅威があるという認識にたって、「平和と繁栄は自らの努力によって維持すべきものであるとの覚醒が必要です」とのべている。ほんとうに、中韓のことをおもうなら、われらが覚醒しないかぎり、中韓が目覚めることは、のぞむべくもない、とおもうのであります。

 

 

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