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2016年10月

2016年10月31日 (月)

ミャンマーからきた娘さん

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ポーちゃんは、ミャンマーからきた娘さんだった。


クリーニング屋の工場で、もう何年もまじめに働いていた。
いつも身きれいにして、あかるく、みんなに可愛がられていた。
いつか、富士山に登りたいと話していた。
仕送りをちゃんとしていた。


日本になじみ、平穏な生活は、いつまでも続くかに思われた。
あるとき、数人の人たちが工場の前にあらわれた。


「知っている人なの?」
「いいえ」


その人たちは、やおら工場に入ってきた。
そして、ポーちゃんたちを、そのまま、つれて行ってしまった。
不法就労だった。
だれも、ポーちゃんがいなくなるなって、思いもしなかった。

何もしてあげられない。面会に行くと、
ポーちゃんは、ただ涙ばかり。ふってわいた現実に呆然のままだった。
ほどなく、強制帰国になった。


あれから、歳月が流れた。大型のサイクロンがミャンマーを直撃した。


今日の新聞に、日本に入国後、失踪した外国人は、5年間で1万人を超えたとでていた。もうずっと前に家内から聞いていた話しを思いだした。

 

 

 

 

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2016年10月28日 (金)

幻想は捨てよと言うけれど

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 自分のしてきたことは知らん顔をして、悪口ばかりいう。結局、かれらは虚言を弄するはかりごとの世界に生きている。いわゆる慰安婦像が、中国の上海師範大に設置されたという。日本がひと言いえば、かれらが返す言葉はまっている。

日本は歴史を正視せよ。歴史は時代によって変えられない。と、しかし中共は、かれらに不都合なことは、ことごとく隠ぺいし、歴史を正視することを避けてきた。ねじ曲げてきた。

何ということだろう。毛沢東の恐怖政治の犠牲になった人々は、数千万人を超える(ユン・チアン著 マオ)といわれる。この巨大な類をみない「人道に対する罪」は世に知られているが、いまや歴史は流れて、中国が糾弾されることがない。それをいいことに、かれらは歴史そのままに、いまもチベット、ウイグルで弾圧がつづけているという。

慰安婦像の設置によって人民を謀り、反日感情を煽る。中国が日本にものいえば、その言葉はみな、かれらの身にふりかかる。それはでてくる言葉が低俗で直截だから、よくかれらにあてはまっている。日本に対して幻想をすてよ、というけれどその言葉は、幻想を抱く中国にぴったりとあてはまる。

 

 

 

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2016年10月24日 (月)

堂々としてあっさりがいい

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 気分が明るくなることはいいことです。いろんなことがうまくいくためには、日本人の気分が明るくなることが必用で、それは、ひとりひとりに確かな自信があればなおいい。けれども、中にはその足をひっぱりたいという人もいるのでありまして、「オリンピックでも、ノーベル賞でも、国家の威信や誇りをしめす単なる数字になり果てる報道に、違和感を覚える」、と異をとなえて宣伝する新聞もあるのですが。

しかし栄えある栄誉は、すなおに喜ぶべきで、清々しいことに違いないのでありまして、それがひとの自然の姿でありましょう。冷めた目はどこかよそよそしい。いたずらにへりくだったり、謙遜したりするあいまいな態度は、日本人のわるい癖で、誇るべきときは堂々としてよろしいのであります。そして、あとはアッサリしていればよいのであります。

先の沖縄での機動隊の土人発言の件にしても、根深い沖縄への差別意識の表れだ、ときめつける報道にはあきれるばかりです。全然、無理があります。おそらく日本人なら、沖縄のひとたちに差別意識をもっているひとなど、皆無だと思います。ペンパイナッポーアッポーペンというのは、無意味ながらもおかしみのある合体語ですが、一方、メディアが、些細なことをネガティブを結びつけようとするのは、弱体化を目論むものたちの歪曲指向だと思いますね。

最近、日本をよい面を掘り起こすテレビ番組がいくつかありますが、それをよく思わない人も中にはいるようですが、実のところ、そいう番組もわるくないです。人の生き方や、よりよいものを追求する姿は、ひとびとに感銘をあたえ自信につながるだろうと思うからです。それらはリアルでありますから、リアルをリアルとして確認しておくことはいいことだと思います。

 

 

 

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2016年10月21日 (金)

必用なのは妥協という精神

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 つむじまがりは、みていてそんなに楽しいものでもないけれど、自分も少々つむじ曲がりだったりすることもあるわけで、考えてみれば、大した問題でもないか、ということに落ちつくこともあって、結局、いちばん必要なのは、妥協という精神かもしれないです。

沖縄において、怒声がとびかう言い争いのなかで、土人といわれたとて、そのごく限られた空間のことなら、売り言葉に買い言葉、そんなに問題にするほどでもない。それを大々的に宣伝するところが、メディアの悪賢いところ。

妥協というものは、頭を冷やして少し要求水準をさげることによって、双方にゆずりあいが生まれる可能性がでてくる。

新聞は、選挙で示された民意を、政府は踏みにじろうとしている、と書くけれど、沖縄の声をひろいあつめてみれば、反対行動を起しているひとたちは、どうみても、過激な暴力集団にしかみえない。その無法に、秩序を乱す行動そのものは、沖縄を代表する民意であるはずがない。

民意という言葉を借りる過激集団も、新聞も、ほとんど病気と呼んでいい。

やっぱり健康がいちばん。国家とは、やはり心のよりどころであろう。国家権力に象徴されるようにその構成や組織上の成り立ち要素を別にして、すなおに見れば、国家はいつか帰りたいと思うふるさとであろう。
伊調馨選手は国民栄誉賞を授与され、西陣の金の帯を贈られた。その晴れの写真をみながら、そう思う。

 

 

 

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2016年10月17日 (月)

記憶という大切なもの

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 何となくいいことがあったような、明るい気分でいる自分に気づくことがある。それが何であったか、すぐには思い出せなくて時間がかかる。ほんのちょっとしたこと、誰かに言われたひと言とか、そんなものに胸がときめくような瞬間がある。人生、つらいことも、うれしいことも、かわるがわるにやってくる。

いま話題の「君の名は」という映画もそんな気がした。君の名は、という言葉の美しさがいい。新鮮で若さあふれる学生の男女が、異空間を行き来して、現実にもどってみれば、あれは何だったの思い出せない、でも、何かいいことがあったような、大切なことであったような気がしている。

見終わって、かつてのNHKラジオの「君の名は」を思い出す。冒頭のナレーションは、『忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ』、というものだった。どちらも記憶を大切していることに変わりはない。

このアニメ映画で、三つ葉、という女の子が、赤い組みひもで、後ろ髪を器用にリボンに束ねるしぐさが印象にのこった。美しい映像だった。千と千尋の神かくし、では、千尋はきものを着ている。仕事をするために、たすきを掛けるシーンがあったが、たすきが流れるように宙に舞い、両の肩からたもとをすくって、きりりとしまる。あれもよかった。

この映画は、だれもがもっている夢のような希望を思い起させる気がする。もう古い歌で、裏町人生というのがあった。霧の深さに隠れて泣いた夢がひとつの想い出さ・・・、ふと、そんなことを思った。

 

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2016年10月15日 (土)

心が曲がった思い違い

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 自虐も自尊もない。素直にみれば素直にみえるし、曲げてみれば曲がってみえる。信じる明るい心がいちばん。たとえ、信じてだまされても、信じる者は、だます者よりはるかに勝っている。それが、世を導くひとの心がけではないだろうか。

寂聴さんは、作家で天台宗の権大僧正、文化勲章を授与され、文化功労者(終身の年金350万円が支給される)。14日の朝日新聞のエッセー「寂聴 残された日々 バカは私」、の中でつぎのようにのべられています。
 「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします。」

でも、殺したがるバカどという発言は、いまもなお死刑制度を続けている国家や、現政権に対してのものだった、とおっしゃっています。そこにはお詫びの心がないわけです。なにか思い違いで心が曲がっているような、私には、国家、現政権が殺したがっているともみえません。そう信じますね、ずっとつづいてきた法は法であるからです。

国と政府をバカ呼ばわりして平然としていらっしゃる。あえていえば国家に対する侮辱のような気がしますが、どうなんでしょう。エッセーの結びのことばは、「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし、という釈迦の言葉を忘れないままに。」 で終わっています。

つまり、水に流しなさい、というお説教でありましょうか。かけがえのない大切な人を奪われたひとの身にとって、悲しみは、そんなに簡単なものではないだろうと思います。

 

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2016年10月12日 (水)

共感をよばない致命傷

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 どんな言葉でも、間違ってはいないという一面は存在する。でも、信じたものが、井の中の蛙であったなら、あわれなものでありましょう。なにごとも、秩序を維持するため生きる難問は、深く考えれば考えるほどに結論がでないということは、よくあること。

なまじ、簡単な言葉で片付けようとすると、おもわぬ落とし穴に落ちることもありますね。さきごろ寂聴さんは、死刑の廃止を訴えて、「殺したがるばかどもと戦って、」 という発言をして、ひんしゅくを買ったのでした。うっとうしいような正義感にみえました。

いってみれば不特定多数の中にむかって言ったのでしょうが、一般人を殺人鬼のものども、とさげすんで見ているにひとしく、ばかども、とひとりよがりで軽蔑をあらわにした品のないものでした。

大人と子どもの違いは、なにもわからず駄々をこねるか、それとも見ている世界の違いでしょうか。大人はものごとを知って、たがいに存在を認め合って生きるようとすることでありましょう。

幼児性そのものでした。幼児性がすぎますね。日本弁護士連合会に乞われて、嬉々として出てきたのでしょうが、度を失った行き過ぎは、逆効果でありましょう。

 

 

 

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2016年10月 8日 (土)

苦渋の決断

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 信義をつらぬくことは悪くない、けれども、それで押し通してよいとは限らない。ときと場合により、その違いは厳としてある。いかに信条とはいえ、こと国の戦略にかかわる立場にあれば、信念といえども強い力のまえに倒されることもある。

終戦記念日を前にして、稲田朋美防衛相は、自衛隊の拠点があるアフリカ東部の ジブチを訪問し、8/15に行われた全国戦没者追悼式に出席できず,靖国にお参りすることもできなかった。

中韓にいかに対峙するか、日米のおもわくがぶつかる。会議は緊迫する。苦渋の決断を迫られる。自らの信念と責任はどうなる。悲しみにこころはみだれる。それはいかばかりであったことか。

おそらく、稲田防衛相は、予算員会における辻本議員の口撃に屈したのでない。おもわず、かのときのことが、脳裏に甦ったのであろう。そのくやしさで涙を押し殺しのではないだろうか。

 

 

 

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2016年10月 5日 (水)

自由な才能と叡智

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 ノーベル賞は、アルフレッド・ノーベルの遺言によって、人類のために最大の貢献をした人におくられる。これからも人類が永続して、その恩恵に浴することができる。大隅良典さんのノーベル医学・生理学賞受賞は、とてもあかるいニュースでした。

奧さんにどんなところで支えてもらったか、という問いに、大隅さんは、
 「いろんな意味で深刻な意見の対立はなく、お互いに、いいかげんなところがあって、それこそ空気のような存在」、
とおっしゃっています。空気のような、というのは、きれいな水と同じ、無味無臭でありながら当然に、そこになくてはならないものです。それに、いいかげんということも、ほどほどであって、ものごとをきめつけない自由さがみえます。

そのめぐまれた自由な才能と、培われた叡智があればこそ、ほかの誰にも見えなかったものが見えたのでありましょう。その結果、オートファジーのしくみの解明という快挙がなされたのでした。

オートは(自分)、ファジーは(食べる)、という意味で、自食作用と名づけられた。オートファジーは、細胞内を浄化する、あるいは病原菌を分解して細胞を防御する、また、老化を防いで若々しさを保つ可能性もあるとか、その存在の解明が、がんなどの多くの病気の発症の研究を急速に発展させた。

その業績が高く評価されたということです。まさに人類に貢献されていることに、感謝と称賛をささげたいと思います。
先駆者がいてはじめて未来が照らされていく気がしますね。遠くから、中島みゆきの歌が聞こえてくるような、

  ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
  ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない。

 

 

 

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2016年10月 2日 (日)

世界一を目指す気概

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 永い目でみて、何かが変わり始めるのは、自然の流れだろうと思います。現状に甘んじていれば、まずまずの歩みをしているものにとって、その方向転換は、なぜいまなの?と煩わしくもあり、目先のことに懐疑になり、後に得られるものは見えず、今のままにしがみつきたくもなります。

自分で考えたものでない限り、新しいやり方は受け入れ難い、ということもありますね。でも時代をふり返ってみれば、世のうつり変わりは、より良い方向に向かったのも事実、それはそれで、そういうこともあるだろう、と思えば納得がいきます。

それが日本人のもっている柔軟性であり、発展を遂げてきた原動力の一つだと思います。何かを変えようとするとき人は、常に行動的だった。未知に魅かれる心があった。時代が求めている機能がうまく行かなくなれば、いつも進化の道をたどってきました。

手を打たなければ、いつの日か風化することも知っている。案ずることはない。ものづくりの精神はこの国にいきずいている。

先ごろの安倍首相の所信所信表明演説の中に、カニかまぼこの製造装置開発の例を引きあいにして、ひたすらに世界一を目指す気概、挑戦を続ける限り、まだまだ成長できる、自信をもって、世界一を目指していこうではありませんか。とありました。

結局、外圧に負けないためには、何がたよりになるかといえば、他の国はしらず、真摯な民の力という土台がなくては、適わないということでありましょう。

 

 

 

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