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2016年11月

2016年11月29日 (火)

一葉の月の夜

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 非凡なる人の人生の軌跡を見るとき、畏敬と憧憬、同情の思いが湧く。樋口一葉の生涯は、二十四年というはかないものだった。先日、樋口一葉の終焉の地という石碑をみる機会があった。その石碑は文京区西片に立っていた。

転居を決めたときの日記が、流れるようなうつくしい一葉の筆跡で刻まれている。店を売って引き移るさきは、うなぎ屋のはなれ座敷で、「家賃は三円也、高けれどもこことさだむ」、とある。六畳二間と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。

秋の夜に、手すりによりかかり池に写る月をながめていると、はじめは浮いているようにみえた月が、池の深くにあるようにみえた。そばにあった箱庭の小さな石をそと落とせば、「さゞ波すこし分れて、これにぞ月のかげ漂ひぬ」、と、甥の子供にみせれば、「あねさまのますることわれもするとて」、いつのまにか硯の石を持ち出し、「われもお月さま砕くのなりとて」、はたと捨ててしまった。

それは亡き兄から受けた大事にしているものだった。
月の夜は、「
汽車の笛の遠くひゞきたるも、何とはなしに魂あくがるゝ心地す」と、『月の夜』という一文につづる。

一葉の描く文は、新鮮な時間が流れていたように引き込まれて、しみじみとする情景に誘われる。「たけくらべ」や「十三夜」など多くの作品を、そこで書いた。この若さで、世情の厳しさを知り、人の定めと、人情の機微を描いてほろりとさせる。そこに住んだのはわずか二年半ほど明治二十九年、薄幸の生涯を閉じた。

 

 

 

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2016年11月25日 (金)

いうほどに信頼がゆらぐ

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 責任ある立場にあってものをいうとき、責任感と自らの立ち位置がしっかりしていれば、言葉は、自ずと信頼に足るものになるでしょう。たとえ自他の考えが違っていても、それはそれで、言い分に一理あるならば、互いに信頼を損ねることにはならないでしょう。

安倍首相とトランプ氏の会談について、蓮舫氏は、何をもって信頼できるといえるのか、安倍首相は説明する義務がある。というけれど、蓮舫氏は何か、かん違いをしているのかもしれないですが、この場合の信頼は、日本を利するための信頼ではなく、安倍首相は、『信頼できる指導者だと確信した』、とのべています。

トランプ氏の指導者としてあるべき姿の片鱗を直観したのでしょう。いわば価値観を共有できると感じ、敬意をあらわしたのでありましょう。話しができるとみたのではないでしょうか。

TPP特別委員会において、蓮舫氏が、安倍首相が何をもって確信したのか答えていない、というほどに、それほど政策に影響するほど重要なことでもないと思います。

蓮舫氏が、説明する義務があるという言葉を使うなら、いわゆる二重国籍の件で、戸籍謄本を公開するなりして、身の潔白をはらす義務があるというものでしょう。「極めて個人的な件」として拒否する姿勢で通すなら、責任ある立場として、信頼は得られないと思います。

 

 

 

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2016年11月22日 (火)

ひとりの人間への賛歌

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 ただただ生きて帰りつくこと、幼い3人のこどもをふるさとに届けることに心血を注いだノンフィクション「流れる星は生きている」(中公文庫)は、感動の書だった。新京から釜山(1300キロ)に至る母子の脱出行は、昭和20年8月からはじまって、たどりつくまで1年かかった。

途中、冬の極寒の中、失意のうちに葛藤する人間模様の悲しさを見た。途上ついに力つきるものもある。著者は、生まれてひと月の女の子の赤ちゃんを背負い、3歳と6歳の男の子をつれて三十八度線を突破する。胸まで水につかって河をわたり、飢えにさらされ、栄養失調のためこどもたちの皮膚病が絶えない。自分も子どももけがをした足で、悪路に難渋した。

やがて船は博多港についた。博多から門司までは貨車に乗り、門司から列車だった。そして、朝まだ早いなつかしの上諏訪の駅についた。家に電話をしてもらった。弟たちや妹がかけてきた。もう涙で前は見えなかった。

 ・・・・・

父の声が聞こえたり、母の声が聞こえたりする。
 「しっかりしなさい、てい子」
 「さあ、しっかりつかまって」
私は両親に両方から抱きかかえるようにささえられて霧の深い町を歩いて行った。
 「もうこれ以上は生きられない」

 ・・・・・

藤原ていさんは、この本を遺されたことで、当時の様子を写されて貴重な一冊となった。悲運に翻弄されながら人間の尽きない可能性を示された。人々に感動と勇気を与えられた。ここにひとりの人間への賛歌を思うのでした。藤原ていさんは、この15日に旅立たれた。98歳だった。

 

 

 

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2016年11月18日 (金)

言葉を離れて目指すもの

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 世界の文明を8つに分けるハンティントンの説があるという。アジアとは違う一つの文明圏としてかぞえられる日本文明とはどういうものか、ひと言では表せないと思いますが、たぶん日本らしさ、ということではないでしょうか。

その日本文明というものを受けついでいまに至るなら、日本は独立した国として胸を張っていいと思います。お国自慢とわらうなかれ、自覚無ければ消えゆくのみです。しかしいま、ほんとうに独立といえるのか、と問われれば考えてしまいますが。

TVタックルで、ビートたけし氏が、政治家に日本独立を訴えた、という記事がありました。
「地球規模で格差社会ができてきて、紛争が起きているときに、大ナタをドンとやるところを見せてほしい」、というビートたけし氏の言葉に、田嶋陽子氏が大ナタとは何か、と問うと、「ほんとうの意味での日本独立。それしかないと思うよ」、とこたえています。

なるほどそうかもしれない。いや確かにそうでしょう。その意味するところは深く、その術は簡単にはでてきそうもないです。時間のかかること必定で、意見をまとめるには一筋縄でいきそうもないです。
戦後レジームからの脱却という言葉は、いわれなくなりました。それをいう限り、そこから抜け出せないからだと思います。

独立という言葉も然りです。言われるたびに引き戻されるような、何か生気を奪われるような気もします。
ビートたけし氏の言葉を受けて、政治アナリストの伊藤惇夫氏は、「静かで世界から尊敬される国」が、日本の目指すべき一つの方向ではないかと指摘すると、田嶋氏が「ホント、それ思う」と同意した。

世界の流れに照らして、信頼され、親しみを持たれる国を目指すなら、それが何よりも大きな力となるのは確かだと思います。

 

 

 

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2016年11月14日 (月)

いずれもちょっと行き過ぎ

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 よくわからないのが、100万人といわれる韓国の朴槿恵大統領の退陣をもとめるデモ、香港の雨笠運動や台湾のひまわり学生運動とも違っている。ことの起こりによって迫る危機があるかといえばそれはない。切実なこととも思えない。

そのパワーはどこからくるのか。敵をみつけて罵倒するひとときの快楽か、自分たちはただしいかどうかはしらず、とにかく悪いやつがここにいるのでみんなでやっつけよう、といういつもの集中攻撃のパターンなのか。ちょっと行き過ぎ。

朴槿恵大統領も出だしは反日全開で、上々だったが、いまや四面楚歌の窮地に立たされている。行きはよいよい、帰りはこわい、とはこのことか、立ったときから、試されている自覚が欠けていたのかも知れない。

人はやりたいようにやる、自分ではどうすることもできない内心というものもよくあること。それは自らの限界と能力というか、続いてきた時代の経験の蓄積がそうさせるのかも。ここはこの国のいくつもの経験という時間がすぎるの待つしかない。

 

 

 

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2016年11月11日 (金)

差別というには無理があるような

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 それぞれに異なる考えがあっても、世は多数の論理によって合意しながらうごいているけれど、中には何となくおもしろからずと思っている人もいるわけで、それはまあ少数でありましょうか。

一票の格差をいう一部の弁護士グループのひとたちの根にあるのは、自分たちが応援する候補の当選を増やしたいということではないんですか。もっと表にでたい、という少数派の訴えではないんですか。いまの一票の格差といわれるものが、憲法14条の法の下に平等において、明確に差別にあたるとも思えませんが、県単位の区割り、一人に一票というのは、合理性があり公平なところでありましょう。

有権者がたくさんいる大都市部において影響力をのばしたいのなら、それなりに優れた資質をもっている人を選ぶべき責任が増すというものでありましょう。現状では、地方にくらべて大都市部は、より得票数の多いひとが選ばれ、少数精鋭ということができる。

つまり、いまの大都市部の1票は、その結果において価値が高いという見方もできるわけで、それを差別と言い切ることは無理があるような。

たとえば、国連総会では人口にかかわらず一国一票であり、中国もパラオもおなじ一票、それが正当とみなされている。という意見にはなるほどと思います。そこには大国も小国も意志表示が同等に認められているからです。

 

 

 

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2016年11月 8日 (火)

立ち止まるということ

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 どんなに夢中であっても、時には立ち止まることが必用で、その間にからだの細胞が再生、回復されていくといわれています。
コンピューターで動く初音ミクの唄は、ブレスがないと、小林幸子さんが、サワコの朝でいっていましたが、なるほどそういえば、そうらしい面白い話しでした。思い込みは捨てた方がよい、とも言ってましたね。

人はやっぱり立ち止まることが必要で、生きていくことは、けがれていくことであるなら、ときにむかしのことに、思いを馳せるのも意味のあることだろうと思います。

神田川は両国橋で隅田川にそそぎます。神田川をさかのぼって早稲田の先に、面影橋がある。橋をわたればオリジン電気がある。その会社に、学生時代、半導体の研究用に液体チッソをもらいにいったことがあって、そのとき、面影橋という橋があることを知ったのでした。以来記憶にのこっていました。

橋の由来は諸説あるようですが、人影が映るようなきれいな水で、そこにたたずむ人に、だれかの面影を誘ったということで、その名でよばれたのでありましょうか。

面影は、何かを追憶するやすらぎでありましょう。立ち止まれば、何かが呼びさまされる気がします。先日、目白駅あたりを歩いていて、ここにあったのかと、この橋に再会したのでした。

 

 

 

 

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2016年11月 4日 (金)

得た知識はどれほどのもの

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 世の大きな流れの変化は、自然的かつ必然的なもので、その中で生まれる他国間の歴史は、利害とイデオロギーの衝突であって、相互に細部の裏面において理解が一致するものでもなければ、歴史はこうだと、後の世に一義的に定めえるものでもない。多くは断片の山があるのみ。

もはや歴史のその場に立つことかなわず、その空気を吸うこともできない。歴史上の当事者のいないところで、善と悪を分けられるものでもない。いたずらに後世の判断基準でさばくことは、逝ったひとたちへの冒涜にあたいすることもある。

テレビの討論番組で、鳩山由紀夫元首相に向かって、国益を考えて行動してほしい、という意見に、鳩山さんは、「あなた方、勉強不足なんですよ」、と反論した。という記事がありました。
故意に、虚実のあふれるなかで、いずれを拾うかむずかしいものがありますが、鳩山さんは、勉強して確かなものと信じたのでありましょう。

しかし元首相という自負ゆえに、その得た知識をもって謙虚さをうしなえば、いつか無用のトラブルと不信をまねいても不思議ではないです。

世界にはそれぞれに、多くの戦争の歴史があり、その中で起こり得る互いに、多くの止むに止まれぬ過ちがあったことも確かだとすれば、後世の者として、いまだに日本だけが謝罪をつづけることの、意味と理由はどこにあるのか。謝罪によって、ほんとうのところ、双方に失うものがあっても、得るものはない気がします。

敗者の立場が身にしみたのかも知れませんが、しかしそういうものは、外交能力には不必用でありましょう。そのような劣勢意識は、諸外国に日本は確かな自負と自立心がないと見下される。弱いとみたら突き落とされる。誰も、よってはこない。この元首相ありと、勉強不足なんて笑ってはいられません。あまりにあわれというか寒々とします。

 

 

 

 

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