« ミャンマーからきた娘さん | トップページ | 立ち止まるということ »

2016年11月 4日 (金)

得た知識はどれほどのもの

161104a


 世の大きな流れの変化は、自然的かつ必然的なもので、その中で生まれる他国間の歴史は、利害とイデオロギーの衝突であって、相互に細部の裏面において理解が一致するものでもなければ、歴史はこうだと、後の世に一義的に定めえるものでもない。多くは断片の山があるのみ。

もはや歴史のその場に立つことかなわず、その空気を吸うこともできない。歴史上の当事者のいないところで、善と悪を分けられるものでもない。いたずらに後世の判断基準でさばくことは、逝ったひとたちへの冒涜にあたいすることもある。

テレビの討論番組で、鳩山由紀夫元首相に向かって、国益を考えて行動してほしい、という意見に、鳩山さんは、「あなた方、勉強不足なんですよ」、と反論した。という記事がありました。
故意に、虚実のあふれるなかで、いずれを拾うかむずかしいものがありますが、鳩山さんは、勉強して確かなものと信じたのでありましょう。

しかし元首相という自負ゆえに、その得た知識をもって謙虚さをうしなえば、いつか無用のトラブルと不信をまねいても不思議ではないです。

世界にはそれぞれに、多くの戦争の歴史があり、その中で起こり得る互いに、多くの止むに止まれぬ過ちがあったことも確かだとすれば、後世の者として、いまだに日本だけが謝罪をつづけることの、意味と理由はどこにあるのか。謝罪によって、ほんとうのところ、双方に失うものがあっても、得るものはない気がします。

敗者の立場が身にしみたのかも知れませんが、しかしそういうものは、外交能力には不必用でありましょう。そのような劣勢意識は、諸外国に日本は確かな自負と自立心がないと見下される。弱いとみたら突き落とされる。誰も、よってはこない。この元首相ありと、勉強不足なんて笑ってはいられません。あまりにあわれというか寒々とします。

 

 

 

 

|

« ミャンマーからきた娘さん | トップページ | 立ち止まるということ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/126209/64441891

この記事へのトラックバック一覧です: 得た知識はどれほどのもの:

« ミャンマーからきた娘さん | トップページ | 立ち止まるということ »