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2016年12月

2016年12月31日 (土)

蟹の気持ち

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 BSテレビで、「寅さん、何考えていたの? 渥美清 心の旅路」という再放送をみた。渥美さんは、「風天」の俳号で270に及ぶ句を詠んでいた。折々に詠まれた俳句から、渥美さんの心の内をたどるという番組だった。
  蓑虫 こともなげに 生きてるふう   風天
最近、蓑虫は見なくなったけれど、一読してユーモラスで、なにか強く引かれる句だと思います。風雪の中でも平気、平気とでもいうように、生きているふりをしていると見ている、その感性がすごい。
  蟹 悪さしたように 生き         風天
蟹は横にあるく。どこから見ても、自分の方をみているように見える。いつも人の顔を見ながら、小心翌々として生きているような。蓑虫も蟹も、人の姿を写して共感をよぶ。

ところで、靖国参拝は、ただ鎮魂と感謝の気持ちをささげるもの。それをプロパガンダに利用するのは、人倫にもとる、卑劣なものだと思います。世界はそれぞれに、少なからず罪を負っているものを、それには、そ知らぬふりをしてものをいう。

渥美さんの句を、しみじみと味わってみれば、気楽な蓑虫と違って、ただ耐えて生きる蟹の気持ちに、涙さえにじんでくるような気がします。

 

  蓑虫 こともなげに 生きてるふう    風天

  蟹 悪さしたように 生き          風天

・・・・・・・・・
ままよ、何とでもいえ。


  あゆ 塩盛ったまま 固くすね       風天

  うつり香の ひみつ知ってる 春の闇   風天
  
春の闇がなぐさめてくれるというものだ。

 

 

 

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2016年12月28日 (水)

健全な心は健全なままに

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 怒りや悲しみは、心の屈折により起こり、内面の不安定をまねく。だからできるだけ早く平静にもどした方がよい。往々にして、怒りも悲しみも耐えてこそ、のり越えてこそ、後の心の糧になる。

ひとは、現実と理想のはざまをさまよいながら、最後は、身にわきまえた道徳に照らして落ち着くもの、人は、そういう自発性をもっている。

辺野古移設工事の再会を受け、沖縄県の翁長知事は、
「沖縄県民の怒りと悲しみはすごいものがありますから、そう簡単に物事は進みませんよと申し上げたいと思っています」と述べました。

翁長知事のこの言葉は、ひとごとのような、責任転嫁のような気もするけれど、沖縄のみなさんに対して、その精神を弄んでいるような、健全なる心を傷つけているような気がします。

 

 

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2016年12月25日 (日)

静かなるものへの理解者

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 いまもむかしも、世界各地から日本にきて親愛のまなざしでみている人たちがいる。かれらは何を感じてそう思うのだろうか。

『武士の娘』を書いた杉本鉞子(えつこ)は、コロンビア大学で七年間、日本文化を教えていたという。着物姿の先生として慕われていたという。その杉本鉞子のために生涯をささげたといってもいい人が、フローレンス・ミルズ・ウイルソンという人だった。鉞子とは十六歳年上のアメリカの人で、鉞子は姉とも母とも思っていた。

フローレンスは、鉞子がアメリカに帰った後も日本に残り、鉞子の郷里、長岡中学で英語を教えていたこともあった。日本に馴染んでいた。フローレンスは鉞子のよき理解者で、鉞子の遠い記憶を呼び覚まし、『武士の娘』を書かせた。それは七か国に翻訳され出版された。

昨日テレビで、外国から日本にきて老境に入ったひとたちの日常をみて、ふとフローレンスのことを思った。かの外国の人たちが日本に惹かれるものは何か、よくわからないけれど、漠然としてたぶん、静かなるものにあるのかも知れないと思う。静かなるものは生き生きとしている。

フローレンスは、「人間至るところ青山あり、とはよい言葉ね」と言ったという。日米のきずなを大切に思う心からでた言葉かもしれない。フローレンス七十六歳、鉞子のそばで青山墓地にねむる。

 

 

 

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2016年12月21日 (水)

良い果実を実らせて欲しい

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 利己的な思いだけを追うことは、多かれ少なかれ、身勝手な姿になって現れる。そのため、ゆくゆくは、自由な動きがとれず苦しい立場になるは必定。沖縄県の敗訴が、20日、最高裁判決によって確定しました。

普天間から辺野古への移設に反対行動をとっている翁長知事の正当性が破綻、苦しい立場になりました。9月の福岡高裁那覇支部判決では、「普天間飛行場の被害を除去するには移設以外にない」とした、仲井真前知事の判断の合理性が認めらました。

最高裁の判決は、翁長知事が、埋め立て承認を取り消したのは違法であり、国の是正支持に従わないのも違法ということです。

違法は秩序をみだします。違法は道理に背き、無理を通して悪い果実を実らせる。それでも翁長知事は、辺野古に新基地は造らせないという。移設を、新基地と言い換える、その欺瞞。危険性を避けるための移設に反対する。そのもくろみは、何か。

 

 

 

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2016年12月17日 (土)

軽やかな時間が流れる

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 人にあこがれあり。
恋ダンスというものが流行っているらしい。テーマ音楽に合わせて、複数のひとたちがあるがままの姿で踊る。ちょっと前の朝ドラでも、てっぱんダンスというのがあった。あれも、見ていて何となく楽しい気分だった。

ダンスはなぜ楽しいのだろうか。リズムと振り付けのほかに、何かみるものに惹きつけるものがある。幾人かのひとたちが踊っているダンスそのものの光景には、ストーリーはなく、主張するものがなければ排他性もない。同化されるような何かがある。

ひとは、日々雑然とした渦巻の中にいて、何かしらの情にさらされ、寛容と不寛容の間を行き来するが、テレビを見ていてもそういうことがある。

エンディングに流れる軽やかなダンスは、一転してその雑念から開放する。清々しい健全さがある。ただ無心の境地。理屈は無し。ダンスは楽し。そこには、うつくしく何ものも包有する時間が流れている。

 

 

 

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2016年12月13日 (火)

ものを壊すことへの執心

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 なにごとによらず、ものをつくることは楽しい。ものづくりは、才知をめぐらす創造であり、前進であり秩序を生む。しかし、無暗にものを壊すことは、短慮による喪失であり、後退でありかつ秩序を失う。

先に、福島県泉崎村にある神社の石像などを壊したとして、福島県警白河署は10日、韓国籍の男を、器物損壊と建造物侵入の疑いで逮捕し、発表した。容疑を認めているという。たとえ偶像を忌避するとしても、時代を経て神聖なる石像を勝手に壊すことは許されない。

韓国の民衆が朴槿恵大統領の退陣をもとめるデモを行って、ついに国会の弾劾訴追案可決により職務停止になった。そこまでするそのエネルギーはなんだろうか。煽動による情動か、正義感がそうさせるのか。とにかく倒すとなったら、執念を燃やすようだ。

韓国では、過去の仏教の遺跡も朝鮮王朝時代にことごとく破壊された。日本統治時代の堅牢な建物も壊された。民団による教科書破壊工作という動画もある。いまにつづく反日行動を煽るものもまた、いわば秩序の破壊を目指しているにちがいない。

韓国の政権が変われば、慰安婦合意も一方的に破棄されるやも知れない。いつまでそんな益のないことをつづけるのだろうか。もう壊すことは、やめられるがよい。

 

 

 

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2016年12月 9日 (金)

枝葉末節と本質のやりとり

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 万事控えめがよい。だいたい自己顕示欲が過ぎると、往々にして墓穴を掘ることになりかねない。先の安倍首相との党首討論において、蓮舫代表の発する批判は、その身に返っていくようなものだった。

首相に向けたその質問の最後に、よく息をするように嘘をつく。気持ちいいまでのその忘れる力を何とかしてくださいよ。と言って終えた。それは、氏の過去の発言に照らせば、勢い余って自滅するようなもの。党首討論は、安倍首相が言っているように、予算員会などと違って、質問に答えるやりかたではなくて、対等の立場で討論するもの。であるなら、質問に終始するより胸をはって討論すべきを、批判だけが目だった。

その中で、総理のその答えない力、逃げる力、ごまかす力、まさに神っています。ちゃんと真っ正面から答えて下さいよ。というのは、自他とも品位を落とす最たるもの、他人がつくった言葉の羅列、知的創造力はみえない。蓮舫代表の短絡的な枝葉にかかわる質問に、そのまま答えないのもテクニックのうち、下手にその手にのれば、欠点、失敗の応酬、泥仕合になって品位は落ちるでしょう。

首相の答えは、事の背景や効果など、本質を説く討論だったように思います。その意味では、蓮舫代表の質問が、安倍首相から、全体のあらましや成りゆきをおぼろげながら引き出したのは、それなりに蓮舫代表の存在意義があったいうものでしょう。

しかしその答えは、追求する側に立つ人たちには、どれもこれも都合が悪かったようで、議場も新聞も荒れ模様でした。

 

 

 

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2016年12月 5日 (月)

公序良俗にそむく選考

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 勝てばうれしいし、負ければ悔しい、感情の起伏はつねに起きる。浮きつ沈みつと人生は流れていく。原因と結果の法則によって、感性と情感は、時の流れのあとから醸成されるもの、そのうちにだんだんと、自らの存在理由が分かってくる。

高峰秀子さんのエッセイに、「人は、シコシコセッセと働き、人のためにセカセカキリキリと生きなければ、自分の存在理由はない」、と書かれていますが、すべては人のためなら、やりがいというものです。ひとつの時代の流行語を決めるのも、そうあってほしいです。

けれども、日本死ね、はひどい言葉です。これは、反社会的な呪詛のことばです。その言葉は、憲法の条文、国民の権利および義務にも反するでしょう。

選考委員のひとり、やく氏は、「過激だとか穏当だとか、選ぶ時に何の尺度にもならない」、と釈明されているようですが、間違っていると思います。

それは、我意を通そうとする詭弁というもの、日本人の一員であるなら、日本死ね、は自殺行為です。この国の中にあって、そういう言葉を、ことさらに流布させようとすることは、あってはならないものです。土人発言の余波よりも、はるかに悪質で低俗だと私は思います。

 

 

 

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2016年12月 2日 (金)

インプットとアウトプットの人生

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 人は日々、おもしろおかしくときにまじめに懸命にいきているけれど、他人なしでは、どうにもならない。絶えず出会う他人から教えられ与えられて生きている。

「杏の気分はほろほろ」という本のはじめのところで、このところ仕事のアウトプットが多かったから、プライベートでインプットする時間をとる、と書いてあった。演技やスピーチ、ダンスのレッスン、美術や舞台をみたり、読書などをしてインプットするというのです。ひとにも、アウトプットとインプットがあるのかと、ちょっと虚をつかれた感じがしました。

なるほど、杏さんの何気なくいうその発想はおもしろい。インプットもアウトプットも他人なくしては成り立たない。からだの中に記憶装置と演算装置があって、ひとを動かしている。インプットが無ければ、メモリーが書き換えられこともなく、答えはいつも同じで飽きてくる。新しいものを得ることは楽しいですが、記憶はときに人を裏切るともいいますから、たえず活性化して最新版にしておくことも必要となってくる。

だから何かをインプットしたいという欲求が大事。
アウトプットは、はい、わたしの番です、という生きている証しのようなもの、いわば他人に与える責任の立場になる。いやいやそうは言っても、それは、若ければこそ、年をかさねると気力を維持するのが精いっぱいです。

 

 

 

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