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2017年10月

2017年10月29日 (日)

独善だけでは生きていけない

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 責任ない立場に立てば、攻撃は強いけれど、守りは弱い。一億二千万人を背負って議会人になれたなら、その重さは充分にある。

それぞれの立場は対等であり、選良としての責任も共にあるはずを、口撃の快感に慣れれば、いつか自分は、何を言っているのかも分からなくなるか。酔う間に、世の形勢を見失ってあわてる。すでに遅し。諸刃の剣に倒れる。

たとえばいまの民進党、元いた人も含めて、なんだか右往左往しているようで騒がしい。独善と責任回避と自己正当化が渦巻き、たがいに勝手な攻撃がやまない。守りの弱さがでているような。こうなったのも、希望に夢を託す前からたぶん、「号泣する準備はできていた」。

過去とのつながりのない号泣はない。ずっと前から、号泣せずにはいられなくなるもろもろの準備ができていた。・・・ような気がします。

 

 

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2017年10月25日 (水)

決着のあとの大任

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 台風が過ぎれば青空がやってくる。秋の陽射しは透き通って、ビルの谷間に落ちる光は、久しぶりに陰影をはっきりと映していました。やっぱり陽の光を目にすると気分が晴れます。

『田原総一朗氏、選挙特番で視聴者意見に激怒 「野党が酷すぎるって何だよ!」 』、 という見出しの記事があったけれど、1視聴者の意見に腹をたてる田原氏もどうかしている。思えば野党の一部のひとが悪ノリして議会の品位を落とすということは、いくつか思い出すことができる。

そういうことが、知らず知らずに世相を変えてゆくことはあるだろうと思います。それはちょっと酷すぎる、といい思いがあるのも確か。それが影響するかどうか、ものごとの決着をつける選挙という方法は、非情なところがあります。衆院選で落選した人の落胆はいかばかりか、一時は、憤懣やる方ない思いがうずまくでしょう。それに生計をかけているとすれば、なおさらだと思う。

けれど、国政の一員として身を置くなら、誠心誠意をもって事にあたって欲しい。それをしてくれるなら、一国を預かる議員の歳費、諸手当など高くして当然と思います。議員を目指すなら、その職分に安住することなく、イデオロギーを越えて、大局を見る覚悟をもって欲しいと思います。中には暴言もでてくるかもしれませんが、選ばれた精鋭のひとりひとりが、深く、大任を自覚するなら、自浄作用が働くのではないかと思います。

 

 

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2017年10月21日 (土)

運命のかけひき

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 世の中いろんなことが起きる。人は他者との共存に努力するけれども、なかなかうまくいかない。圧力と感情のもつれがぶつかる。そうしてみれば、ひとびとの営みは、運命という必然によって、紡がれている気がします。

運命は人びとの期待を負っているけれども、時としてそれを裏切られる。先のことはだれにもわからない。よく、騙すより騙されるほうが悪いというけれど、それは善悪の論理を越えてサバイバルの手段かもしれませんが、いわゆる革新的な立場にすれば、騙すことは、共存の精神に反する。保守的でもなく、人間的でもないです。

それも運命のいたずらのせいだろうけれど、騙すつもりはないけれど、実は自分が、天に騙されたことに気づかず、騙されたことの受け売りをしている、ということもあるかも知れないと思うのです。各党首の熱弁をみていて、そんなことが頭の中を過ったのでした。

 

 

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2017年10月18日 (水)

冷たい風が身にしむ

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 たぶん、世の中は多数で動いているわけではなくて、声の大きさで動いているのかもしれない。ここのところ冷たい雨が降った。一葉は、雨はいつも哀れなる中に、秋はまして身にしむこと多かり、というけれど、なるほど季節の移りはそんな気もする。

何となくつらつら思うに、いつのころからか、相手を批難する声ばかりが聞えてくるようになった。それを自由というものかもしれないが、欲がまされば、理性をわすれる気がする。そんな風が流れている。これもみな、時のはずみなのかもしれないけれど、許さないとか、やめろなど、の声が聞こえるにつけ、いつも、どこか冷たい風が身にしむ感じがする。

時の流れの核心をなすものは、道徳あってのことだろう。やはり、理想と現実の相克、その感情を調整するものが必要で、それが道徳ではなかろうか。それが希薄なのは、道徳というものを忌避する風の影響があるのかも知れない。

出たり入ったり、壊したり作ったりする政党もあるけれど、正義というものをもつなら、人倫の道として、正義は、自己都合を頑なに拒否するはず。かれらが報道の偏りをいう声を聞かない。いかにしたら、殻を破れるか、真剣に考える時ではないだろうか。新しいものを見つけたなら、それが大きな力になるような気もするけれど。

 

 

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2017年10月14日 (土)

窓をあけ新しい風を

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 風は、そよと新しい風をはこんでくる。花も樹々も風に吹かれて生きている。人のからだの中にも風がふくことがある。はなやいだ風だったり、ときにはうそ寒いすき間風がふくこともある。喜怒哀楽の風がふく。でも内なるものをなだめながら、そしらぬ風をして耐えている。

メディアに煽られる政争。それも、ものには限度がある。森友、加計の疑惑隠し、という風を、いまだに吹かせようとしている。大いなる時間の浪費。疑惑というよりもそれを武器にして固定化をねらっているような感じもする。濡れ衣をきせようとするに等しい。それは、どこかの空で見た風景に重なる。

隠しているものを出せ、といわれても、からだの中にふく風は、捕まえること叶わない。隠しようもない。もう、いつまでそんなことをしている。見えるものを見ず。あるものを捨て、ないものを出せという。

われら大衆は、説明も理屈もきらい。それなのに、説明が十分でない、とは聞いてあきれる。とるに足らぬこと、あいまいはあいまいのままがいい。つまりは何でもないことに、悪意の推論をつづければ、やがて我が身ふりかかるは必定。ここらで、きれいな風よふけ、と思うのであります。

 

 

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2017年10月10日 (火)

凡なることの積み上げ

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 ひとのことは、計り知れないと知れば、自己は凡人に過ぎないと知る。凡人は、ただ自らが負う責任を果たしていけばよいのかも知れません。おそらく、そういうことが大事なのでしょう。

先日の大河ドラマ「おんな城主直虎」において、百姓の身になったおとわ(直虎)は、南渓和尚に、徳川様というのはどのようなお方であったか、と聞かれ、つぎのような意味のことを答えていました。

あのお方は非凡なる凡。己を凡人として踏まえ、決してておごらず、何をなすべきかを知り、やるべきことを積み上げ、凡なることを着実になしえるお方は、やはり非凡なのではないかと、ゆっくりと回想するのでした。なるほどのう、と南渓和尚は嘆息する。

己と他、いずれが凡かは知らずとも、凡と非凡のあいだには、おおきな隔たりがある。たがいにその一点だけを押していては、らちが明かない。そこは、なすべきことをまじめに積み上げていくしかない。つまりは、もって生まれた清潔感、うそやごまかしのないことを大切にする、ということでしょうか。心の片隅に残った一場面でした。 

 

 

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2017年10月 7日 (土)

言葉の安売り

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 国政の奥深いところに、しがらみ、がはびこっているそうで、一体、どんなものか見てみたいと思います。なんでも一気に打ち破って、国政を根本から大きく改革する。と、意気込んでいらっしゃいます。

幸福実現〇というのもありますが、このネーミング、なんだか今が不幸の中にあるような錯覚をしてしまいます。希望するためには、前提として、多少の失意の中にあることが必要ですが、その感性おかしい、という人もありまして、いまの実感としては、みなそれぞれに、まあ希望はしぼんではいないと思います。

希望というもの、ひと言でいうなら、ひとの生きる力でしょうか。それなら言われなくてもみんなもっているのがふつうで、自分の力でつかむから、喜びにも変わると思います。希望の党の政策集がでていましたが、政治に希望を、経済に希望を、家計に希望を、などなど・・・すべての政策に希望を、とうたってありました。

そんなうまい手があるといいですね。いま現在の国政の歩み、楽観はしていませんが、それほど悲観もしていません。「希望を」という言葉の投げ売り、安っぽい感じがしないでもありません。

 

 

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2017年10月 1日 (日)

静かな時間が流れる

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 松の緑には、ゆかしさがある。松は松葉を落とし四季かわらず緑を保つ。枝ぶりは、さまざまな形を見せ、辺りによく調和する。皇居東御苑の平川門、その城門は堅固で重く、時代を今に示している。そこをくぐると、松の枝が石垣からせりだして、お堀の水に影を落としている。そしてゆるやかな坂道、立ち止まれば、その景観の静けさは、心にしみる。

江戸城の天守台から望めば、広い芝生と森がみえる。樹々に囲まれた細道を行けば、松之大廊下跡という石碑がひっそりと立っている。往時、ここに確かな時間が流れていた。しばし偲ばれる。ここを訪れる人は、外国のひとが多くなった。最近は、40%を超えているという。ここは静かでいい。大手門をでると、車が絶え間なく流れていました。

 

 

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