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2018年3月

2018年3月29日 (木)

人心を惑わす虚像

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 政論で戦うよりも、相手をたたきこわした方が手っ取り早い、そう思ったか、その機をうかがうに、都合のよい情報を手に入れたなら、彼らはその情報にしがみついて二度と手放そうとしない。手を替え品を変え、有る事無い事をもってふくらまそうとしてきたが、その情報操作は、勢いあまってパンクしてしまった。

森友問題の件は、総理、総理夫人の関与はなかったと、当時財務省理財局長だった佐川宣寿前国税庁長官の証言がありました。メディアといくつかの野党の攻勢は、内閣が吹っ飛ぶぐらいの問題だ、と吹っ掛けたけれど、そのような言葉は、総じて印象操作を思わせる。たとえそれが確かな理由を示さないものであっても、今そうと分かっても、結果として悪い印象をうえつけたことは、人心を惑わす罪深いことだったと思います。

やはり、かれらが望んでいるシナリオは、かれらにとって心地よいものだったのであろうけれど、それだけにのめり込み過ぎた。塩野七生さんは、ユリウス・カエサルが残した言葉として、つぎのように書いていますね。
 「人間ならば誰でも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」 と、見たいと欲する現実は実に都合がよいです。

多分そういう気持ちが高じると虚像が見えもする。見たいと欲する現実は、人をとりこにする一種の麻薬かもしれません。誰しも見えない現実があるのは仕方のないこと、心して置きたいものだと思います。

 

 

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2018年3月25日 (日)

本物だけが美しい

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 「美しくなければ意味がありません」 いつか見たテレビ、漆塗り師のことばです。伝統に裏打ちされた工芸職人のまなざしと心意気が伝わってきます。金粉を散らす指先の繊細さ、その映像はみごとなものでした。

出来栄えはどうですか、と問われた職人は、にべもなく、「だめだね」 とひと言。テレビカメラを入れてやったのは初めて、息をつめていてもホコリが舞っているからだめだという。本物を極めるということは、真剣勝負の世界だ。テレビマンは色を失うしかない。

 

 

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2018年3月20日 (火)

自然はいつも律儀

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 葉を落として寒さに耐えた木にもほの赤さがみえはじめると、そこからは季節の変わりは早い。じきに花が咲き一気に緑が増してくる。自然はいつも律儀で、大きなめぐみを与えてくれます。

結局、民主主義というのは、ものごとを受け入れるということか、と思うのです。いま、なにかというと、民主主義が腐敗したとか、堕落した、あるいは、根幹を揺るがす重大問題、などという言葉を聞きますと、それは必ずしも民主主義にかかわるとも思えなくて、あれは白を黒と言いたいがための「うそも方便」のような気がしないでもありません。

めぐる自然と歴史の流れるこの風土に対する何かしらの憧憬があれば、許容と協調性というものは、自ずと身につくのではないかと思うのですが。

 

 

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2018年3月16日 (金)

春の日の風

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 行きずりの親切というものはありがたい、たとえその人が悪いひとであってもです。旧くから、渡る世間に鬼はなし、といいますから、わが国はひとに親切であり、遠慮もあって寛容でもあります。つまり島国ゆえに性善説にもとづいて行動する伝統があると思います。

なのに、いまの政争は、同胞であるのに、ただ悪い人に違いないという風がやまないのは、どういう風の吹き回しでありましょう。なんだか視野が狭いような気がしますが、新しい風をもとめて明るいところに出てみれば、とても呼吸が楽になるのでございます。

 

 

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2018年3月13日 (火)

やがて明るい陽射しが

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 ようやく寒さがやわらいで、いろんな若芽がではじめ季節が変わってゆきます。梅の花もそろそろおわりですが、いつだったか横浜に行ったとき、梅の匂いがただよってきたことがあります。ふつう、梅の花の匂いはあまりしませんね。こんなに匂う梅があるのかと、新鮮な驚きでした。そこはその名にふさわしく梅香崎橋という橋のたもとでした。

古歌に梅の香をうたったものがありますが、正岡子規は、それを、「歌よみに与ふる書」の中で、歌よみが詠むように梅は匂わない、面白からずといっています。

「真面目らしく人をあざむく仰山的の嘘は極めて殺風景に御座候」といっています。そして、「小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候」と結んでいます。

いま、声の大きいひとたちの言うことは誇大です。何かがゆがみはじめ、善良な民へのこころを惑わすような気がしてなりません。子規のいう言葉は、いまこころに響きます。

私たちはどうしても、誇大な情報の断片にだまされやすいです。ゆがむだけなら、元にもどりようもあるでしょうが、小さきことを大きくいう嘘が元でこわされたとしたら、それは元にはもどりません。大きな損失というしかないでしょう。なんと罪深いことでしょう。

懸命に働いても足をすくわれることもある、ものをこわすにやっきになっているのをみると、極めて殺風景です。でも静かなるものは強い。季節は変わりはじめています。それは変わりない。やがて若葉のころ、明るい陽射しがくるのは間違いないです。

 

 

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2018年3月 9日 (金)

未知なるものへの畏敬

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 未知への期待は大きい。未知なるものは大いなる可能性を秘めている。そこから得られる新しき価値あるものは、素朴な心と、ものごとに固執せず、英知とひたむきな探求心をもつ者の上に輝く。

だけど、都合のよいことを未知に期待すれば、とんだ無駄道をあゆむこともある。世のことも人のことも、明日のこともまた、少なからず自らにとって未知かもしれないです。未知は偉大であり、畏るべしです。

森友学園への財務省の決済文書が書き換えられた疑惑あり、という野党の要求に対し、「原本の写し」が、財務省から参院予算委員会の理事会に提出されました。しかし、野党6党は、承服できないとして予算委員会を欠席しました。

かれらは一体、正邪いずれを期待したのでしょうか。結末はまだわかりませんが、ことの発端の新聞も野党も、未知なるものにたいする畏れをしらないとしたら、実に恐ろしいことかもしれないです。与党も然りではありますが。

 

 

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2018年3月 5日 (月)

遠い原風景

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 松は歳月を越えて緑を絶やさず、幹も枝ぶりも自由自在な個性をもっている。若木のうちに人が手入れをして愛でることでその個性がゆたかにそだつのだろうけれど、大きくなるほどにそれぞれの個性が調和してさわやかな景色をつくる。

永い風雪を生きてきた松林をみれば、遠い原風景にで会ったような気がします。静かな時間の流れのようなもの、どことなく心やすまるような感じがあります。いわば安心を誘うというか、そんな風格があります。

松は、旧くは能舞台の松羽目、あるいは「荒城の月」や「古城」にも歌われて親しまれてきました。そこに立つとき、つめたい水が流れるように何かを呼び覚ましてくれます。

 

 

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2018年3月 2日 (金)

みだれない心の広さ

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 古くから伝わる俗謡には、滑稽というか、人情味というか、そんな言葉のあやの面白さがあります。そういう処世的な感覚は、伝統的なものかもしれないです。先日、日本の伝統芸能という講義を受けたとき、ビデオ映像をみたのですが、三味線を弾きながら女のひとが唄っていました。

♪猫じゃ 猫じゃ とおっしゃいますが 猫が 猫が下駄はいて 絞りの浴衣で 来るものか オッチョコチョイノチョイ

何かことばが意表をついておもしろい。おっしゃいますがと、敬語を使っているところがさらっとして粋な感じがします。それを聞いて思いだしたのが、沖縄の俗謡「十九の春」も同じですね。たとえば3番の歌詞、

♪見捨て心が あるならば 早くお知らせ 下さいね 歳も若く あるうちに 思い残すな 明日の花

これも敬語ですね。どちらも男と女のやりとりを唄っていますが、なんとなく情があって、乱れたりはしない心の広さが感じられます。日本には昔から自分を抑えようとする精神文化があって、それはいまも流れていると思います。適度な遠慮というものでしょうか。

 

 

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