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2018年4月

2018年4月29日 (日)

意味深な強かさ

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 春は明るく青葉を透かして光り輝いている。風もひんやりとしていい季節になりました。いろんなものが生き生きとしてくる時節です。南北首脳会談もそのひとつ、さて、風向きはどのように変わるのでしょうか。

でも、みるところ切羽詰まった、とはこのことかもしれません。板門店宣言のつぎの一節 「南北関係を改善し発展させることは、全民族の一致した望みであり、これ以上先送りできない時代の切迫した要求だ。」

 これは、北への経済制裁により、どうにもできない切迫した実状に追い込まれたことを意味していませんか。中国が日本へのレアアース輸出を制限したとき、応用技術のあらゆるものが生産ストップになりかねないことに、日本は大いに困りました。それと同じ、推して知るべしです。

北が物資を調達できなければ、衰退の一途をたどるしかないでしょう。今回の首脳会談は、その活路を見出すべく、南北交流をと言っているのではないでしょうか。つまり経済制裁の抜け道をつくりたい、だから南北で協力しようと。

板門店宣言のもう一つの気になる一節、「南北は、完全な非核化を通じて核のない朝鮮半島を実現するという共同の目標を確認した。」 とあります。核のない朝鮮半島って、共同の目標って、どうなんでしょう。

韓国には核はない。もし、核があるとすれば北にあるのです。わざわざ、完全な非核化といっているところ、意味深ですが、米国が同盟国の日本や韓国にさしかけている核の傘を無くせ、といっているなら、それはしたたか、というしかない。

それにつづけて、南北が、「責任と役割を果たす」 と宣言文にあります。北が北なら、南もおかしい。アメリカはいらないと宣言しているようにもみえます。

それに普通、スケジュールのない計画なんて意味をなさず、空文になりかねないです。この宣言文も同じ、スローガンのようなもので、聞えがよいだけで大衆の感情に訴え変な方向にむかうとも限らない、何かが隠されているような気がします。

 

 

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2018年4月26日 (木)

人生の軌跡の一片

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 集まったり別れたり、また一緒になったり、名前を変えてみたり、すぐに沸騰したり、益のないことを繰り返す野党、あれは、刹那的な生き方のようにみえるけれど、レンズが曇っていて先が見通せないのかもしれないです。やはり長い人生、レンズをよく磨いて悔いのないようにしたいものです。

それはさておき、折にふれ見たこと感じたことが記憶となり喜怒哀楽の軌跡となって流れていく。それが、人それぞれの人生。時が流れてその断片がよみがえるとき、なつかしさが心を潤す。

人はなぜ写真を撮るのだろうか。ふと一枚の写真をひらくとき、忘れていた心の記憶を呼び覚ます。そこに立ったときに流れていた時間と、体感したものがじわりと心に沁みることもある。たぶん、時間が経つほどに記憶が心をうごかす。

写真は、人生の軌跡のひとひらのメモリー。その時間を感じるために写真を撮る。だれでも、写真を撮るとき少し心が弾む。27年ほど開くことがなかった 『前田真三写真集 四季彩歳」 をめくっていくと中々たのしい。その写真と文を読みながらそんなことを思った。

 

 

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2018年4月23日 (月)

ポジティブとネガティブ

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 潔さとか、水に流すという考えかたは、日本のひとつの文化といえるでしょう。ながい歴史の人間ドラマのなかで育まれたものでありましょう。何かの変事にあたって、打算よりは現実に起きたことを肯定することで立ち上がろうする。いわば不浄なものから、元の清浄な時間へと返りたいという思いがそうさせる。

そういうポジティブな思考の文化があると思います。日本人の秩序とか冷静というものも、東日本大震災を機に世界がおどろくことになりました。潔さとか、優しい、に相当する言葉は中国にはない、と石平さんが言っています。えっ、と思いますが、こちらにあって、あちらにはない。なればやはり固有の文化といってもおかしくないと思います。

芸術や工芸にしても、あるいは科学技術にしても、失敗をくり返しながらも、冷静にもどって前向きに歩こうとする。そのひとつひとつがこの国を支えてきました。その情熱、人はそういうものが好きなんだと思います。

でもまあ、中にはその本物にまじって、にせものが大手を振って歩いているのであります。バランスがとれている、といえばそうなんですが。たとえば、ネガティブ思考がとても好き、分をわきまえない政治家、なぜなんでしょう。わけが分かりません。#Me Too のフリップをもって黒服で集まる人たち、それが政治なんですか、滑稽を通り越して涙が出そうです。

 

 

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2018年4月19日 (木)

ひとつの処方箋

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 あらゆる方向からみれば、ほぼ全体像がみえ、どこにポイントがあるか分かってくる。多少問題があっても、それは人間だからありがちなことで騒ぐことでもなく、組織内に自浄作用が働くからどうにかなる。

けれども、全体像を見せたくないのがマスコミで、マスコミが見せてくれる部分はみえるけれども、全体像は中々みえてこない。

私たちはどうしても部分情報をみて、全体像と思い込むことになる。つまりは、野党やマスコミの言うことに動揺し、的外れなポイントの思い違いがおきる。目先にとらわれ、大事な未来のことを考えることができなくなる。それが蔓延して政権支持率が不安定になることもあるかと思います。

思うんだけど、与党と野党では、言論の自由に大きなハンディキャップがありますね。予算委員会で大臣に向かって、「いらない! 出て行け!」と野党が発言しても咎められることはありませんでした。もし与党が発言したなら、ただでは済まない。ハチの巣をつついたようになるのは確かだと思います。

このハンディキャップをもつ一部の野党、いまの情勢では、何を間違えたか、政権への攻撃が止むことは、おそらくないでしょう。その処方箋は、私たちひとりひとりが、些事にとらわれず、その短絡的な強弁に惑わされないことでしょう。往々にして強弁には、何らかの無理があると思います。

 

 

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2018年4月16日 (月)

自然の必然性への共感

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 やはり純粋なものには、真実があるような気がして気持ちが落ちつく。ひとつの風景として空の青は、遠く透き通って心を広くする。先日見た、TBS系「プレバト」の俳句。

  『空のあお 富士の蒼へと 飛花落花  梅沢冨美男』

 この句、見上げれば、青空を背景に桜の花びらが散る。風に吹かれた花びらは、遠景の富士山にかかり、グラデーションは蒼に変わる。そして花びらは地面に落ちる。美しくはなやかでありながら、はかなさもみえる。そういう景色が想像できます。それは目のまえの自然の必然であり共感できます。

こういう句に接すると、古い人間ですから、こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ、という歌がよぎります。

  『花震ふ 富士山 火山性微動  東国原英夫』

 深淵な発想で1位に推された句です。梅沢冨美男さんをして恐れ入りましたと言わしめた。私にはあまり響いてこないのですが、火山性微動にしてもそうですが、いくつかの過去の句にしても、彼の作句の心には、何ものかに対する反抗心のようなものが潜んでいるような気がするのですが。

何となく胸騒ぎがする句が多い。やはり、空のあお・・・、の方が景色が澄んでいる。ありのままを純粋に詠んだものが好みです。

 

 

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2018年4月12日 (木)

人のまじめも知らぬげに

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 桜が散れば、あとは若みどりが増すばかり、しだいに桜前線は北上をつづけ、やがて北国にも花がさく。それはだれしも待ち望んだこと。古のひとは、静こころなく花の散るらむ、と詠んでいます。そんなに散り急がないで欲しいということでしょうか。

静かなる心で自然と会話するのは、ひとつの伝統としていまもつづいているけれども、その願いは、自然のなりゆきにまかせるしかない。ひとはみな今日明日のために、黙々と精をだして米をつくり、野菜をつくり、花を育て、魚を獲る。みなまじめに働いている。

一方、いま何ごとかといえば、過ぎ去ったことを推し計っていつまでつづくとも知れない森友、加計などの愚問。ただ、静こころあれと望むばかりです。

 

 

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2018年4月 9日 (月)

確かなものと不完全なものと

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 蒔いた種をカラスにほじくられるのもしゃくだけど、疑似餌でひっかけられる魚も口惜しい限りです。しかし、なんだかんだといっても、世は平穏無事です。それも、ながい時間をかけて、きずいてきた確かなものがあるからでしょう。

だからひとは、まあまあ、生き生きとしていられる。その確かなものは、「草原のペガサス 街角のヴィーナス みんな何処へ行った」 と中島みゆきさんが歌うように、男も女もあり、名も知らない地上の星たちがきずいてくれたものでありましょう。

人びとがいわば文化を育んできた。かれらは情熱をもっていた。まじめに向き合うことでしか結果をだせない世界、それはふるくから知られていた。その流れをくむスピリットをもっていた。だからかれらは確かなものを形づくることができた。

人はもともとというか、そもそもというか、不完全なものといわれていますね。だれしも過ちをしないものはいない。そこが成長のしどころ。銀河鉄道999のネーミングは、1000に満たないということで、松本零士さんによれば未完を象徴しているという。つまり旅をつづけているのだと。

だから不完全の崇拝というのは生きているあかし。不完全なのはみなおなじ。不完全を衝いて完全をもとめる声もあるけれど、あれはあまりまじめとも見えず。生きる緊張感が見えないような。何か生命力も感じられない気がします。

 

 

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2018年4月 5日 (木)

さくらを惜しむ心

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 さくらもまた、春の夜の夢のごとしでしょうか。散ってしまった桜木をみるのも名残惜しいけれど、桜の種類は多くて思わぬところでまだまだ見ごとに咲いている所に出会うこともある。中々にその花の季節はながくもあります。

なぜに桜に惹かれるかと問うも、無粋な気もするけれど、惜しげもなくさっぱりとして未練を残さない桜、人はかくありたいと、そこが好まれるということでありましょう。

平家物語の冒頭は日本人ならだれでも思いだすことができる。栄華から崩壊に向かうのは世の常で、美しさの極みもいつまでもはつづかない。不意の一陣の風に桜の花びらは自らの意思で一斉に枝から離れる、なんとみごと、と思うけれど、同時にもったいない気もします。

桜がどこか琴線にふれるのは、たぶん、そんな惜しむ心がそうさせるのかも知れないです。惜しむ心は、我はさておいて何かを大切にしたいという気分、時の流れの中で知らず知らずに醸成されてきたものでしょう。

よくも悪くも諸行無常、桜の大樹にも悲しみはあるかも知れないです。だとしたらあれは涙と見ることもできる。ならば酒でなぐさめるもよしでありましょう。

 

 

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2018年4月 2日 (月)

庭という情趣の創造

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 自然の風景は静かです。緊張があれば緩和があるように、人のいとなみは動と静のくりかえし、その静の時こそ心身ともに安らかにして、動の緊張への活力をやしなう時間。日本ではふるくから、自然の風景を取り入れた庭園がつくられました。

美に対する憧れでしょうか、自然の景観を創造する伝統があります。最近見たBSテレビのプレミアムカフェ、『世界最高の庭づくり~石原和幸チェルシーフラワーショウに挑む~』 は、各国の精鋭が斬新な趣向をこらした庭を競う、見ていて圧巻でした。こんな庭があれば、とても心が和む、快適な空間、そのデザイン、よくぞこんな庭を思いつくものだと感心せずにはいられませんでした。

創造とはこういうものかと思いました。どのようにしたら、美しくみえるのか、美なるものを追及、識別し構成する人たち、それは素晴らしい。やはり、自然の景観を愛でる作業を誰かが考えてくれるというのは、人間にとって大切なことだと思います。

たとえ玄関先の小さな坪庭の南天ひとつをとっても、なにげない木陰の小径に並ぶ明かりであっても、それがあるとないとでは、大きな違いがあります。そこには潤いがあります。静かな世界があります。

 

 

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