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2018年5月

2018年5月31日 (木)

不協和音

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 街を歩いていたら街頭演説の声が、 「・・嘘をついている」 と聞こえてきました。何のはなしか知らないけれど、嘘をついている、というその言葉は、真偽は別にして何か秩序を壊すような感じがします。

最近、国会議員のコメントにもでてきますが、ひとのことをよくあんなに言い切れるものだと思います。もし、思い込みで言っているなら、嘘をついている という嘘は、実に低俗なものだと思います。

その言葉は重いからです。事実なら返す言葉がないです。多数者に呼びかけて断罪するような、それは、いまはやりのハラスメントと言ってもいいのではないでしょうか。

一般人が言うならともかく、国会議員がそれ口にするのは、品位に欠けると思います。国会議員が品位を保たなければ、政治が正常な国とは言えない気がします。

 

 

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2018年5月27日 (日)

漱石の絵はがき

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 ことしは明治150年、明治は純粋な時代だったのではないかと思います。ひとびとは真っすぐに歩こうとしてきた。いま純粋培養の夜が明けようとする。その朝のきれいな空気の中で、知力と期待をこめて世界に羽ばたこうとする。そんな時代のはじまり、いろんな人たちが生き生きとしてきて、この国の礎を築いてきた。

先日の新聞に、『夏目漱石 淋しい 英留学中はがき、1世紀ぶり確認 福井市内の古本店で』 という記事がありました。明治の空気がひょっこりと流れてきて何かなつかしいような、絵はがきに書かれた文字が絵の中に溶け込んで美しい。漱石がドイツにいる友人に宛てたものだった。漱石は文部省の命を受けたイギリス留学だったけれど、その途、失意の底にしずんで帰ってきたのでありました。

 「・・金ガナイカラ倫敦ノ事恰も頓ト知レナイ勉強モスル積ダガソウハ手ガ廻ラナイ・・・今日ビスケットヲカジッテ晝飯ノ代リニシタ餘リビールヲ飲ンデハイケナイヨ左様ナラ」

官費の少なさにさぞ不自由をしたのでありましょう。身につまされて物悲しけれど、ここにある絵はがきは美しいです。漱石という人が世にでてきたことは大きい。漱石は旧千円紙幣に描かれて栄誉を称えられた。一葉にしてもそうですが、皇帝でもない人物が紙幣に描かれるとは、世界の人々は、日本の文化の違い驚くそうですね。

 

 

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2018年5月23日 (水)

ざわざわと吹く風

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 人はそれぞれで、わがままで、わからず屋の面をもっている。それが個性であり、生きている証しでありましょう。人の価値として必ずしもわるくはないです。その自意識はすべての活力の原泉、自意識をなくせばやる気はでません。ただ、人はひとりで生きているわけでもなく、それで押し通せないことも知っている。

だから、皆、ほどほどを知っている。ほどほどには反発がなく、意は通じ、なるほどと思わせる。それは無駄ではなく、時間の流れの中でゆっくりとこなれて互いの滋養となっていく。

しかしいま、ほどほどを忘れて、わがままも、わからず屋も、たがが緩んだか、勝手きままに歩きはじめた。それで不信を誘発し、なんだか世の不合理を生んでいるような気がします。

何を求めようとしているのか、ただの愉快のためか、自ら高めるものはもとめないのか。
よってたかって人のことを、怪しいという風ばかり。それは、余人を巻き込んで壮大な時間の浪費、劣化の道のような気がします。
できるなら、風はさわさわと爽やかに吹いてほしいです。

 

 

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2018年5月20日 (日)

それでいいと思った

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 経験しなければ決してわからない、というのはありえることだと思います。それは結果が見えてはじめて気がつき、理解できるということでしょうか。映画 「荒野の七人」 の中のちょっと有名なシーンですが。

 「いつだったか服をぬいでサボテンの上に飛び降りた奴がいたんで、何でそんなことをしたのかと、俺は聞いたことがある。」

 「それで?」

 「そん時は、それでいいと思ったそうだ。」

世の中にはいろんな人がいて、中にはそんなこともあるかもしれません。大学のアメフトの試合中に起きた 「悪質タックル」 といわれる件は、監督も選手も、激しい試合の性質から、その時は、いいと思ってしたことではないでしょうか。

しかし、かれらはその行為の良し悪しにまでは気がまわらなかった。結果にでてくる現実を予測できなかった。抗議を受け、騒ぎが大きくなって、はじめて、取返しのできないことだった、と知ることになったのではないでしょうか。しかし、「それでいいと思った」 とはとても言えない。批難ごうごうの中で謝るしかない。

似たようなことは国会でもありますね。自分たちの要求がいれられなければ、といってストをする野党がありました。もっとも、やってみてスト権がないことに、彼らが気づいたかどうかはあやしいです。まったく謝るようすもないですから。

 

 

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2018年5月15日 (火)

謙虚に向き合う

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 ものごとに謙虚に向き合う姿は、みていて気持ちがいい。初心忘るべからず、という世阿弥の教えは、人が生きる基本かもしれない。

大相撲が始まった。貴乃花親方は、序ノ口の取り組みから審判の席に座った。紹介のアナウンスで拍手と歓声があがった。年寄に降格、久しぶりの審判に、「新鮮です」 という言葉も清々しい。

人は誰しも迷いながらも、正しく真っすぐに生きようとする。けれども果たして、いまのいくつかの野党の人たちは、そう思っているのだろうか。もし、正しいことをしているんだという自覚があるなら、何かが間違っているような気がします。

政治を預かる身としてやっていることは、何だかあら探しに一生懸命になっているように見えるからです。日本のことを考えるのが政治家であるなら、日本が好きということがあっていいと思いますが、かれらにはそれがみえない。見えるのは自己過信というか政権に対する排他性だけを感じます。

面従腹背を座右の銘と公言する前事務次官もいらっしゃいますが、内心では反抗するのだ、これが正しい道だ、というなら、もう人として信用は置けないのでありますが、なぜかマスコミや野党には信があつい。

たぶんですが、そういうい人たちは、他人がどう思おうが何ともない、恥ずかしいということはまったくないのだろうかと思います。恥ずべきものがないということは、本来、道徳がきらい、照らすべき道徳をもっていないからでしょうか。あるいは単純化思考の結果でありましょうか。
とかく善か悪かは難しく、多様な世の中、できるなら謙虚に生きたいと思います。

 

 

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2018年5月12日 (土)

平穏な風が流れて

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 一面のクローバーをみると、ああ、どこかで見たような、なつかしい景色に出合ったような気がします。はなやかさはないけれども、静けさがある。一群の花は美的な秩序があります。ブルーシートの上でゆったりしている人たちがいて、ひろい自然と人が調和している。

古人は、秘すれば花、といったけれどこれもまた、ありふれた風景なのに、微かに心うごかすものがあります。ここには平穏な風が流れているのであります。

 

 

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2018年5月 8日 (火)

あるがままを受け入れる

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 ひとは本当のことを言われると怒りだす。国会でもそう、セクハラ罪はない、というのもそのひとつ、財務省前で抗議集会という。ちょっと前には、質疑中に首相秘書官が 「違うよ」 といったひと言で、「秘書官がやじを飛ばすな!」 と激高した野党議員がいました。

言われたことは一理あると思うのですが、すぐに怒りだす、あれは何なのでしょう。正当性が揺らいで、思わず恥ずかしさを隠すためでしょうか。それともおごり高ぶって、人を見下した優越感の悲しさでありましょうか。

少し前にみたブラタモリ、京都・銀閣寺、同仁斎という一室で美しい日本文化が始まったということでした。そこは四畳半で、同仁斎とは、人はみな平等ということ。部屋は簡素で、障子をあければ庭が四角に切り取られる。それらが、「わび」 象徴しているとありました。わびとは正直につつしみ深くおごらぬさま、といわれます。

それはあるがままを受け入れることで、ものごとへの相対的な視線の大切さをむかしの人は知っていたのでしょう。物も人も自然も無駄なものはない。確かにそこに、それぞれ存在するに値するものでありましょう。

今いろんな批判がありますが、あれは自分の立場とは相いれないがための批判であり、公平な立場からの批判ではないと思います。立場が逆転すれば、おそらく批判も逆転するか、あるいは無視するにきまっていると思います。

上の写真は、この3月、明治村で撮ったもの、名古屋にあった歩兵第六聯隊兵舎の廊下です。明治六年以来、この廊下もここに生きつづけてきて、いつも静かに、誰かがきてくれるのを待っている、そんな気がするのです。

 

 

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2018年5月 5日 (土)

辻褄合わせが無理すぎる

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 世の中には理路整然と混迷する奴っているんですよ、と、だれかがいっていましたが、その言葉、中々はおかしい。たぶん、本人は大真面目、でもそれはおかしいだろう、コンパスが狂ってるんじゃないの、ということでしょう。

5・3護憲派集会のスピーチの詳報全文を読んだのですが、落合恵子氏、元朝日記者、大学教授、立憲民主・枝野幸男代表、民進党・大塚耕平代表、共産党・志位和夫委員長、社民党・又市征治党首、などが登壇してのスピーチです。

ひとことでいうなら、事実誤認と誹謗中傷のアジ演説のようにみえました。集会の性質上、そうなるのかもしれませんが、それにしても中身のないものにみえました。

昨日のNHKの雑学クイズ番組、答えられないと、5歳のチコちゃんに、 「ボーっと生きてんじゃねえよ!」  と叱られる。
いわれてびっくりです。ビッ!となりました。

 

 

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2018年5月 2日 (水)

一服の清涼剤を

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 野にも山にも若葉がしげる、と歌にうたわれ、農家は茶摘みも種まきもいそがしくなる。その確かな事実として、目に映る風物は生産的で、農家でなくても、この先何となくいいことあるような気がしてきます。

あかねたすきに菅の笠とつづけば、若くてあかるく、元気そうな、働く姿もみえてくる。そんないまの時節、それはこの情報社会のなかの一服の清涼剤であります。

最近というか、ずっと前からというか、何かといえば大騒ぎしているのが、マスコミといくつかの野党、中身をみれば、とるに足りないこと、それがどうかしましたか、という気がします。疑惑より大事なものは事実でありましょう。

いまの疑惑というのはかれらの願望のような気がしますが、一体、何のために大騒ぎをしているのでしょう。悪口ばかりでは、言葉つきや顔つきまで、印象が定まるだけで、得することはないと思いますが。

あまりにも長すぎた。よっぽど遅れているような。ここらで自問自答、そろそろ自らの正体に気づき、正気にもどって楽になった方がいいとおもいますけれど。

 

 

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