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2018年5月 8日 (火)

あるがままを受け入れる

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 ひとは本当のことを言われると怒りだす。国会でもそう、セクハラ罪はない、というのもそのひとつ、財務省前で抗議集会という。ちょっと前には、質疑中に首相秘書官が 「違うよ」 といったひと言で、「秘書官がやじを飛ばすな!」 と激高した野党議員がいました。

言われたことは一理あると思うのですが、すぐに怒りだす、あれは何なのでしょう。正当性が揺らいで、思わず恥ずかしさを隠すためでしょうか。それともおごり高ぶって、人を見下した優越感の悲しさでありましょうか。

少し前にみたブラタモリ、京都・銀閣寺、同仁斎という一室で美しい日本文化が始まったということでした。そこは四畳半で、同仁斎とは、人はみな平等ということ。部屋は簡素で、障子をあければ庭が四角に切り取られる。それらが、「わび」 象徴しているとありました。わびとは正直につつしみ深くおごらぬさま、といわれます。

それはあるがままを受け入れることで、ものごとへの相対的な視線の大切さをむかしの人は知っていたのでしょう。物も人も自然も無駄なものはない。確かにそこに、それぞれ存在するに値するものでありましょう。

今いろんな批判がありますが、あれは自分の立場とは相いれないがための批判であり、公平な立場からの批判ではないと思います。立場が逆転すれば、おそらく批判も逆転するか、あるいは無視するにきまっていると思います。

上の写真は、この3月、明治村で撮ったもの、名古屋にあった歩兵第六聯隊兵舎の廊下です。明治六年以来、この廊下もここに生きつづけてきて、いつも静かに、誰かがきてくれるのを待っている、そんな気がするのです。

 

 

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