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2019年11月

2019年11月26日 (火)

一人相撲

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 奈良の県道で、ガードレール170枚の盗難事件が発生、その重さ約5トン、一体何者が、何のために、不埒極まる仕業は、まともな人間ともおもえないです。ガードレールが、おのれの打算からでた欲望をみたすための、代替え手段に見えたのか。

そこにあるべきものが、支柱だけのこして失われる無残な姿が、目に映らないとすれば、道徳観のない幼稚な精神というしかないです。

 ところで、韓国は、GSOMIAの件で、破棄を停止するというニュース、一瞬、ついに破棄したのかとおもったら、そうではなくて、破棄しないという意味、ならば、前言を撤回する、と言えばいいものを、あくまでも非をみとめたくない、ということが、その身に脅迫観念にとりつかれているのではないかと思えてくる。

やはり韓国は、GSOMIAそのものの本質をみていないようだ。ただ、何かに使える道具としてみている。ものを正すに、次元の異なる交換条件が、成り立つはずもないものを、へたな作戦で勝とうとするところに、哀れみさえおぼえます。

  

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2019年11月23日 (土)

晩秋は残り少ない

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秋の陽は遠くから射し夕暮れは早い
そのみじかい時間に
陽は楓を透かしてあざやかにする

けれども、きのう今日は、冷たい雨がふって
風もふく、身に染みて速足になる
晩秋の日は、あといくつあるだろうか

夏に剪定してもらった夏みかんの木
実はふたつだけ残った
少し色づきはじめた
それを見るのもたのしみのひとつ

 

 

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2019年11月17日 (日)

多様のなかに希望あり

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 人でも物でも、あるいは自然でも、すべて有用なものはうつくしいものです。うつくしいものには活力があります。だからみな、うつくしいものにはあこがれます。

桜をみる会というものも、それは、人の心を穏やかにし、美なるものを大事にする心を養う、一種の儀式であります。儀式でありますから正装で臨み、清浄でけがれがないものです。たとえ参加しなくても、そうすることに意義があると思います。

内閣の公的行事としてみるなら、十分にうなずけるものがあると思います。世の中には悲喜こもごも、いろんなことが起こるけれど、それは多様ということであり、「そんなお金があれば、」 という人もあるけれど、それは単純すぎる。

内閣府主導で桜を愛でるというのも、多様の一部であり、危機、困難なことはいろいろあるけれど、みんなで、希望を見ようとするものでありましょう。実に有用なものと思います。

来年は中止というのは残念であります。いまメディアも野党も、あら捜しにやっきになっていますが、あら捜しというもの、それは不浄の心、という気がします。

  

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2019年11月12日 (火)

一つのメッセージに感じるもの

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 健康ほどありがたいものはない。野山も花木も海もまた健康であれば、収穫物に恵まれ、景色もうつくしい。きれいな空気の中で息をすることが大事です。そうすれば自ずと健康はやってくる。何かにとりつかれたような不健康はいけない。つい気短になってしいます。なにかといえば争いにはしるものもある。

先に、皇居前広場で行われた、『天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典』 において、女優の芦田愛菜(15)さんが着物姿で、ご即位をお祝いするメッセージをのべました。

それは、「謹んで申し上げます」 という、うつくしい言葉で始まり、
「最後になりますが、いつまでも両陛下がお健やかであられますようお祈り申し上げ、お祝いの言葉とします」
と敬愛の言葉で終わる。

それを聞いていて、何か熱いようなものを感じました。考えてみれば、なんだかいまの世相も、健やかでありたいという思いがします。
そんなものが、そのメッセージに、二重写しのように、見えたような気がしました。

  

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2019年11月 8日 (金)

昔の人の価値観

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 何のために生きるか、と問われれば、これは難しいです。すぐには答えられません。すぐに答えられるひとは、よほどできた人でしょう。漠然として思えば、生きるとは、喜びを求める、ということかもしれません。

先日、平家物語の講義を受けて、感銘をうけたのですが、昔の人は、はっきりとした価値観をもっていたということです。
平忠度は、戦にやぶれ都落ちしたはずを、危険を冒してまいもどり、藤原俊成卿の門をたたく。自分が詠んだ和歌の中、ひとつでも勅撰和歌集の選に入れ貰えるよう、懇願し、百首を記した巻物を藤原俊成卿にわたす。俊成卿は疎略にはしないと答える。

忠度は、「いまは、浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世に思ひをくことは候はず」、と言って去っていく。

武将でありながら、戦うことそれ以前に、和歌を大切なものと思い、後の世にのこしたいと思った。そういう価値観をもっていたとわかる、講義の先生(女性)の話しにひきこまれました。高校古文でも取り上げらる、でもこの話しまったく知りませんでした。

んなことも知らないのかと笑われるかもしれませんが、ぼーっとしていたのかもしれません。
平安時代に、そういう人が生きていたということが、なにか感動するものがありました。
考えてみれば、そいう先人の熱意があって、多くの遺してくれたものがあって、いま現在があるような気がしてきます。勅撰和歌集に入れられた歌は、つぎの一首。

  さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな

  

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2019年11月 5日 (火)

自由という名の無理

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 どこでも行ける身軽さは、いろんなものを見、何かを感じる自由があって、素晴らしいものです。身の自由は、発見と創造を生む大切なものでありましょう。

何かの像、作品、虚構の映画をつくるのも自由、世のため人のため、何か心を打つものであれば、その公開は意味あるでしょう。

けれども、「無理が通れば道理が引っ込む」 のも真理、
文明も歴史も悠々と流れてきた秩序のひとつ、肺の鼓動も、秩序のひとつ、しっかりと、続いていなければならない。

しかし、なにをするのも自由、という人たち、その人たちの自由、何かを壊したい自由がみえる。それは、自分たちの勝手な自由、無理を通す自由、大きくいえば、していることは人類の損失。そう思うのであります。

  

 

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