2010年10月 5日 (火)

寛大なひと

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フジ子・ヘミングさんの日本の自宅を訪ねるテレビを見ました。訪れたのは、安住紳一郎さん。たくさんの猫たちがいる部屋もある。広いフローリングの床、住みごこちのよさそうな雰囲気、めずらしいものを発見していく安住アナも、見るものも興味津々でした。

そこで、スタッフからスリッパを渡され、はっとする安住さん。靴のまま入っていたことに、初めて気づき、「入っていいと言われたもので・・・」と恐縮しきった安住さんでした。

「いいのよ、全然構わないのよ」 「いいのよ」 とフジ子さん。

構わないの、と繰り返すその言葉に、彼女を貫いている一本の筋のようなものを見た気がしました。
それは、何年か前にテレビに出ていたフジ子・ヘミングさんの一つの場面を想いだしたのです。
東欧の国でどこが好きですか、と聞かれて、

  「そうねえ、床にたばこの吸殻を落とせるところって、いいわねえ。」
  「そういうのって、寛大じゃない。」

と、どこの国とも言いません。日本国籍も与えられず、避難民として再渡欧の手続きせざるを得なかった、ことなどと重ねあわせてみれば、だれを恨むでもない。大らかな性格のようす。
寛大さを求め、自らもその寛大な心をもち続けて生きてきたような、彼女の人生を想わせるのでした。

もうひとつの想い出す場面は、ソリストとして演奏しているとき、

  「オーケストラのおじさんが涙を流しているのよ」
  「観客の中にも泣いている人を見たわ」
   ・・・・・
  「自分で何かを想い出して、涙をながしているのよ」

と、ひとごとのように言ったのでした。

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2010年9月27日 (月)

中国の日本への恩返し

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物言えば唇寒し秋の風。粛々と対応し、粛々と判断し、今後も同じように粛々と対応する。なんだかみんな無口になったようです。

責任、謝罪、賠償という言葉に落ち着きをなくす。何か言えば百倍になって帰ってくる。これはもう通り過ぎるのを待つしかない。思っても人の悪口は言わない。わが身の正当性も言わず。保身おぼつかずです。

われらの哀しい性は、どうしようもないのでしょうか。日本の巡視船の傷跡は事実を物語っています。 だれかが言ったように、「潔白は証明された」ぐらいには言ってほしいものです。

それにしても、今度は、反対に日本の漁船、巡視船が拿捕される危険が増しました。 大丈夫?大丈夫ではないでしょう。・・・ずっと前、誰かが言っていました。中国や周辺国の行動は、かって援助してきた日本への恩返しだそうです。

「いつまでも平和ぼけするな!」 「日本よ、目を覚ませ!」 「聞こえないのか」 と、俄然、元気がでてきたような気がします。

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2010年9月20日 (月)

判断をあやまる感情論

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朝鮮学校への授業料無償化は、親の負担を軽減するものであって、子供たちのためのものではないでしょう。新聞で読みましたが、社民党の阿部知子さんの無償化への賛成論は、つまるところ、子供たちへの感情論であるように見えます。

「子供たちが、どれほど傷つくか、差別を受けた、排除さえたと感じるだろう、学ぶ権利を第一の考えてほしい」 と、さらに、「(無償化によって)人は追い詰められれば追い詰められるほど、殻に閉じこもってしまうものではないか」 とも述べられています。

無償化しないことが、差別にあたるかどうかは、異論のあるところ、それは別にして、差別が悪であるかのような考えは、必ずしも正しくはないと思うし、殻に閉じこもるような、ひ弱なものでもないでしょう。

差別によってしか、学ぶことができないことも多いです。叱ることがそうであり、競争させることがそうです。ほめることも大事だが、叱ることはもっと大事。おとなの世界でも同じ。阿部知子さんも「朝鮮学校の教育内容に問題がないとは思っていない」 と言われます。

教え方が間違っているなら、叱るのことこそ責任ある親愛のあかしとなるはずです。
無償化するかどうかは、国が行う政治の問題であり、子供たちの感情、あるいは自分の感情をその理由にするのであれば、政治家にあっては、あやまりではないか、と思います。

政治に感情が入ると、判断を誤り、道理が引っ込み無理が通る。と思うからです。かって沖縄の集会で、生徒を壇上に立てていたことがありますが、「私のおばあちゃんがウソを言っているというのか」 と、あの映像を思い出します。

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2010年9月13日 (月)

今は言わない?

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いわゆる、ばらまきの財源について討論する報道番組を見た。
無駄を削るとか、埋蔵金などという一時的な財源ではだめだ。恒久的な財源がどこにあるのか?という問いに、

森ゆうこ議員は、財源はある。ときっぱり、言い切った。
あるというなら、在り処をはっきりさせなければ、妄言にひとしく虚言ととられてもしかたない。しかし、そのもの言いは、確信に満ちたものがあった。

どこにある?と詰め寄られるて、
不遜にも、「いまは言わない」 と言い放った。
国の疲弊によって、借財の方が多いことが明らかになっている。今は言わない、とは、どういうことであろうか。

そこに重大な意味の秘されたものを感じる。多数党になって次第に表れてくるその考えていることは、予期しなかったことが多い、冗談ではなく、本気で考えていることが分かってきた。

その多くは、以前には、表立って言わなかったことだ。
まさか、防衛予算が無駄とは、信じたくもないのだが、小沢一郎先生も、財源はあるとおっしゃっていたが、それも明かしてはいない。

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2010年9月 8日 (水)

闘う男

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幕末から明治にかけて男たちは、闘志に燃え命をも惜しまず活躍した。魅力ある男たちだった。よく勉強し、深く考えた。万国の法に照らし律儀に行動したのは、竜馬に始まる明治の男たちだった。

ところで、今の時代の平均的な女性の思考のイメージは、男性にくらべ表面的であり、情感に左右されやすい、と思うのだが、今や一部の男たちは、女性化したように思う。男のものの考え方が変わってしまったのだ。

情報の洪水におぼれ、何が正しいのか自ら判断できなくなった。平和なくらしがつづき、脳が怠惰になって、楽な方に進むようになった。人の考えをもって、それに同調することが多い。あたかも自ら考えたように行動する。
近隣諸国の顔色ばかり気にし、
謙遜、謙譲を美徳とするあまり、自ら国を卑下してやまない。
これは、風土と価値観の異なる国に対しては、誤解され、笑いこそすれ、信頼と理解をえられるものではない。

他から反論されると、理由をつけて辻褄を合わせる思考に変わった。過去の断片と対比する理由づけは、浅薄であり、対比の不適合が目立ち、正当論は破綻する。

政治は感情論ですすんではだめだと思う。感情を優先するのは、表面はよく見えても、自他共に強くは、なれない。考えが表面的で情感に左右されやすいという典型の例として、女性党首にそれが見られる。闘うことをわすれ、男の考えも女性化しつつあるのではないか。

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2010年8月30日 (月)

約束された言葉

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かって朝鮮半島では、特権階級のみが漢字を読み書きでき、民衆は放置されていた。ハングル文字が発明されていたが、民衆に広まることはなかった。
それは、李朝時代の特権階級が望まなかったからであった。
そこで、日本は、5000校にあまる小学校を建て、教科書を用意しハングルで読み書きできるようにした。ということを知った。

「言葉を奪い、文化を奪い」ということとは、違うようだ。

そうして見れば、ハングルが民衆に定着したのは、近代に入ってからのようだ。現在のお金に換算して、日本が60兆円を越える資金投入をして近代化を推し進めたのも当時の日本人の性格と前向きな考えからすれば、事実に違いない。

「多大の損害と苦痛」と言われても、言葉のあそびに見えてしまう。
「意に反して行われ」、「国と文化を奪われ」、「民族の誇りを傷つけられ」、これら菅談話の中の言葉は、文法で見れば、朝鮮半島から言う言葉だ。
これらを含め、「多大の損害と苦痛」にたっては、主語が日本人ではない。という指摘は、うなずける。

聞くところによれば、民主党議員たちがソウルで、「どうような談話を望まれるのか」と伺いをたてたという。
菅談話が、その意を汲んで、約束された言葉が混じっていたなら、自らの内から出たものとは言えず、朝鮮半島の人々に対して、誠意のある談話とは言えないと思う。

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2010年6月 7日 (月)

聞く耳もたなければ、

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いわゆる抑止力とは、バランスということでしょう。バランスがとれていれば、安定状態にあって、それは永くつづく力をもっています。しかし、いずれかが突出した力をもつようにになれば、その強い力に淘汰されます。

それは、バランスの崩れた状態を生み、脅威が生じます。中々もとに戻ることはできません。これから進もうとする道が、目に見えるかどうかは、個人差があって、なかなかよく分かりません。

バランスがくずれることは、長期的、大局的に利害に影響するものであれば、行うべきは、国民の目線ではなく、情ではなく、政党の優位性でもない、でしょう。
深い洞察と、知力をめぐらした政治的判断によって実行されなければならないと思うのです。

それは、異なった意見にも聞く耳をもたなければ、判断はむずかしかろうと思います。いまぼくは日々、情に流されながら迷い道からぬけだしたいと思っています。

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2009年5月24日 (日)

両横綱に土という意外性

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 白鵬、朝青龍、ともに土がついた14日目の相撲、会心のわざがきまった一瞬は、見ていて爽快感がありました。
横綱がそろって負けるという意外性もありますが、ほんのわずかな一瞬に、燕がひるがえる様に、美しい形となって決着がつく様は、芸術作品と言ってもいいと思います。

わずかのスキをつかれて、わざに落ちたとき、すでに無力のままに自分を支える力を失ってしまう。
泥まみれで立ち上がる屈辱の姿と勝者との対比、積み上げられたものが不意に途切れてしまう落差は、残念というより、むしろ見ていて清々しい不思議な感動が湧いてきます。

思えばそれは、自分の中の悲喜劇性を連想させるひとコマでもありました。
天からの驕る気持ちへのいましめかも知れません。勝つも負けるも、気迫を尽くした結果は、つぎへの力を呼ぶことは、確かな気がします。

 

 

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2009年5月17日 (日)

ときには現実から抜け出して、

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 過ぎ去った歴史のなかをさ迷うことは、ひとつの悦楽です。

誰に気がねすることもない、自分ひとりの時間です。
遠い時代の人に、思いめぐらせるとき、よろこびも苦しみも、悲しささえも、ぼくの中に清流が流れるような気がします。

一切の雑事をわすれ、その中でさらさらと遊ぶことができます。一冊の本に触れたことによって得られる、はるかな想像は折にふれ楽しい時間を呼びます。

 

 

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2009年5月10日 (日)

ひとの頭で考えるということ

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 いつの時だったか、黒柳徹子さんと明石家さんまさんの対談を見ていたときのこと、さんまさんが徹子さんに
  「あなたは、人の話しを聞いていないでしょう」
と言ったことがあります。

一瞬それはないだろう、とぼくは思いましたが、まあ、お笑いの番組、テンポの早い会話の流れで展開していきましたが、
徹子さんはよくしゃべる、という断片的な印象を、さんまさんがもっていたとすれば、そんな言葉がでるのも不思議はないかも知れません。

「徹子の部屋」という長寿番組をもってる徹子さん。

人の話しを聴くプロな訳ですから、そのプロに向かって「・・聞いていないでしょう」 はないんですね。

一瞬、憮然となる徹子さん。聞き流してはいましたが・・・

さんまさんも「話しのプロ」です。
ですけれども、さんまさんは、話し方の能力の優れていることから、いつも自分の頭で考えていて、他人の頭を利用して考えることが少ないんじゃないの!とよそながら勝手に思ったのです。

よく、ああ言えばこう言う、というタイプの人がいますが、そういう人をみていて、ふと、そんなことを思いだしたのでした。

 

 

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