2018年6月21日 (木)

ありのままに見れば

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 事の善悪の有無は関係なくて、事のプロセスを問題視しているのが今の野党とマスコミの攻勢でしょうか。人と人が会ったかどうかはそんなに問題とも思えず、それは人の自由であります。

人のため身のため無理をしないほうがいいと思うのですが、無理を押しておかしなことをつづけていると、人はおかしくなってしまうのでしょうか。素直な見かたができず、叩けばよいということで、それで、世に不信が蔓延することを望んでいるような。

テレビを見ていたら、野党の議員さんのコメントがありまして、
 「ふざけたタイミングで、ふざけた人間が、ふざけた会見をした」、
というように聞えたのだけれど、これはもう、テレビで流せる代物ではないと思います。不謹慎にも、気にいらないからといって、怒気を含んで他人を罵倒するようではだめでしょう。 ひとはだめ押しをされると、狼狽し、虚勢が表れるのでございましょうか。
 (都立・旧古河庭園 大正6年竣工)

 

 

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2018年6月17日 (日)

初夏の緑の中へ

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 この道は初めて通る道。つゆの晴れ間に、初夏の緑は明るく映えています。樹々の下を歩けば、しっとりとした空気に包まれる感じがします。緑道はどこまでもつづいています。

やはり人の道のルールは、守った方がいいと思います。ルールに従えば間違いがないからです。けれども、ルールを守り過ぎるのは問題ではないかという中国メディアの記事がありました。 『誰もがルールをひたすら守る日本人はまるで「病」にかかっているようだ!』 という見出しでした。

ルールは、長い時間をかけて経験と伝統にもとづいてできたいわば、きまりです。そのきまりを実践することで、よい結果を生み、無駄が少ないことは確かでしょう。「ルールは破るためにある」 といっても、それは創造的で有能なごく限られた人にあたえられるもので、だれもがルールに従わなければ世は乱れるばかりです。

記事は、日本は「病」にかかっているから活気がない、というけれど、ところかまわず、人中で大声をあげていいというものでもないです。
世界の中で新しいルールがほぼ確立されようとしている時に、かれらが、それを理解しえないとしたら、そこに問題があるような気がしますが。道は歩いて気持ちのよいものであって欲しいです。

 

 

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2018年6月14日 (木)

雨と睡蓮

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 睡蓮の池に雨が降っている。一面に、無数の波紋ができては消え、消えてはできる、静と動の風景。雨の中もまたよしです。喧噪で雑多なただ中にいても、厭うことはない、過去も未来もない、ただその一瞬に没頭して生きればよい、という森下典子さんの書、あの 「日日是好日」 を思いだします。

移りゆく季節を味わうこと、今ここにいること、このままでよい、ということ、雨の音を聴くということ、そこにこそ、自らが、さえぎるもののない自由の中に生きていることに気づく、という。

先生は何故そうなのかは言わない。それは、わたしたちを自由に解き放つことであったと。実はすべては自由だったのだ。

私には分からないこと、知らないことも多いはずだけど、雨の落ちる水面と、スイレンの花をみれば、なるほどそうか、今を味わうことか。それが濃密な時間となって、いつか目からうろこ、ということもあるかもしれないと思うのです。 (明治神宮御苑) 

 

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2018年6月10日 (日)

わがままな風

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 お城は風格があってうつくしい。天守も白壁も石垣もその威風は、今にのなごりをとどめている。むかしの人びとは城を仰ぎ大事に思い、誇りをもっていた。それで城下町が栄えた。それはいまもつづいている。

時代は移り、アイデンティティというのかどうか、いまは世に反抗的であることがいいことであるような風がふいて、何かといえば、反抗心が旺盛であります。その最たるものが安倍政権を倒すという風。

いままた、「公権力とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」 という映画監督もあらわれるけれど、正しいかどうかは別にして、それはわがまま、ぜいたくという気もします。

そのような風を吹かすことが世の乱れを誘っているような気がします。反抗心が自立心をうながすならいいけれど、みなの義務と誇りをわすれさせてはよくないです。おとなが、幼子に反抗するのは壊れているとはいえ、元はと言えば、そういうわがままな世の風に原因があるような気がします。

 

 

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2018年6月 7日 (木)

狂騒に押し流される

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 すまじきものは宮仕えというけれど、あわれというもなかなか身がいたみます。森友の文書改ざんの件、財務省の20人の懲戒などの処分が発表されました。

世の狂騒に押し流されて、やむなく改ざんに手を染めるも悪事から発するものでもなく、手中に得るものなく、汚名をきてあとにのこるくやしさと空しさはいかんともしがたいものがあるでしょう。同情に絶えないです。

当時の理財局長だった佐川前国税庁長官は国会において証人喚問に呼ばれたおり、つぎのようにのべていました。

「・・当時、本当に局内、私も含めて、連日連夜、朝までという日々でございまして、本当に休むこともできないような、月曜日から金曜日まで毎日ご質問いただいている中で、そうした余裕はなかった。お叱りを受けるのは重々承知でございますが、全くそういう余裕がなかったというのが、実態でございまして、申し訳ございません」

ほんとうにみんな追い込まれて、重圧と緊張の中で日々仕事に取り組んでいたのでありましょう。野党もマスコミも問題ありとするも、その根拠を示さず狂態を演じたけれど、なんの咎も受けず、痛痒を感じる様子もないです。悪いのは誰か。理不尽といえば理不尽であります。彼らは有能な職員でありましょう。このことは、財務省において、泣いて馬謖を斬るに等しい気がします。

 

 

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2018年6月 3日 (日)

みんなまじめにやっている

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 仕事が好きな人は、それによって技を磨こうとする。あまり好きでない人も、それなりにまじめに仕事をしている。みんな、活気があって生活ができるということは、前向きの雰囲気があってのことでしょう。

それが国力というものかも知れないです。政治や経済、あるいは資源、武力の背景、それに文化も大切な要素でありましょう。それは、どれも人がかかわることでありまして、つまりは、個々人の力の結集が国力になるのでありましょう。あらゆる人びとが、まじめに働くことによって、責任を果たしている。それで国が安定していると思うのであります。

一方、国会議員の中には、責任感が見えないような人もいます。偏向する新聞に煽られて同調し、無理を通そうとするから、ボロがでる。そして怒る。それは、私心の過信、その不まじめさがそうさせているのではないでしょうか。

大阪地検が佐川前国税庁長官を不起訴にしたことについて、立民の辻元清美国対委員長は、「国民感情と全くずれている。あれだけのことをやっても罪に問われないとなれば、改ざん天国の霞が関になってしまう」 と批判しました。

改ざん天国の霞が関? これはひど過ぎると思います。官僚全体を誹謗する暴言だと思いますが、それにくらべてあなたはちゃんと国力に資する仕事をしているのですかと問いたいです。

人を喜ばすということでいえば、花屋の店員さんも日々そうやってがんばっているのです。テレビに映る辻元氏しか存じ上げませんが、その店員さんにも及ばない、という気がしないでもないです。

 

 

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2018年5月31日 (木)

不協和音

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 街を歩いていたら街頭演説の声が、 「・・嘘をついている」 と聞こえてきました。何のはなしか知らないけれど、嘘をついている、というその言葉は、真偽は別にして何か秩序を壊すような感じがします。

最近、国会議員のコメントにもでてきますが、ひとのことをよくあんなに言い切れるものだと思います。もし、思い込みで言っているなら、嘘をついている という嘘は、実に低俗なものだと思います。

その言葉は重いからです。事実なら返す言葉がないです。多数者に呼びかけて断罪するような、それは、いまはやりのハラスメントと言ってもいいのではないでしょうか。

一般人が言うならともかく、国会議員がそれ口にするのは、品位に欠けると思います。国会議員が品位を保たなければ、政治が正常な国とは言えない気がします。

 

 

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2018年5月27日 (日)

漱石の絵はがき

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 ことしは明治150年、明治は純粋な時代だったのではないかと思います。ひとびとは真っすぐに歩こうとしてきた。いま純粋培養の夜が明けようとする。その朝のきれいな空気の中で、知力と期待をこめて世界に羽ばたこうとする。そんな時代のはじまり、いろんな人たちが生き生きとしてきて、この国の礎を築いてきた。

先日の新聞に、『夏目漱石 淋しい 英留学中はがき、1世紀ぶり確認 福井市内の古本店で』 という記事がありました。明治の空気がひょっこりと流れてきて何かなつかしいような、絵はがきに書かれた文字が絵の中に溶け込んで美しい。漱石がドイツにいる友人に宛てたものだった。漱石は文部省の命を受けたイギリス留学だったけれど、その途、失意の底にしずんで帰ってきたのでありました。

 「・・金ガナイカラ倫敦ノ事恰も頓ト知レナイ勉強モスル積ダガソウハ手ガ廻ラナイ・・・今日ビスケットヲカジッテ晝飯ノ代リニシタ餘リビールヲ飲ンデハイケナイヨ左様ナラ」

官費の少なさにさぞ不自由をしたのでありましょう。身につまされて物悲しけれど、ここにある絵はがきは美しいです。漱石という人が世にでてきたことは大きい。漱石は旧千円紙幣に描かれて栄誉を称えられた。一葉にしてもそうですが、皇帝でもない人物が紙幣に描かれるとは、世界の人々は、日本の文化の違い驚くそうですね。

 

 

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2018年5月23日 (水)

ざわざわと吹く風

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 人はそれぞれで、わがままで、わからず屋の面をもっている。それが個性であり、生きている証しでありましょう。人の価値として必ずしもわるくはないです。その自意識はすべての活力の原泉、自意識をなくせばやる気はでません。ただ、人はひとりで生きているわけでもなく、それで押し通せないことも知っている。

だから、皆、ほどほどを知っている。ほどほどには反発がなく、意は通じ、なるほどと思わせる。それは無駄ではなく、時間の流れの中でゆっくりとこなれて互いの滋養となっていく。

しかしいま、ほどほどを忘れて、わがままも、わからず屋も、たがが緩んだか、勝手きままに歩きはじめた。それで不信を誘発し、なんだか世の不合理を生んでいるような気がします。

何を求めようとしているのか、ただの愉快のためか、自ら高めるものはもとめないのか。
よってたかって人のことを、怪しいという風ばかり。それは、余人を巻き込んで壮大な時間の浪費、劣化の道のような気がします。
できるなら、風はさわさわと爽やかに吹いてほしいです。

 

 

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2018年5月20日 (日)

それでいいと思った

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 経験しなければ決してわからない、というのはありえることだと思います。それは結果が見えてはじめて気がつき、理解できるということでしょうか。映画 「荒野の七人」 の中のちょっと有名なシーンですが。

 「いつだったか服をぬいでサボテンの上に飛び降りた奴がいたんで、何でそんなことをしたのかと、俺は聞いたことがある。」

 「それで?」

 「そん時は、それでいいと思ったそうだ。」

世の中にはいろんな人がいて、中にはそんなこともあるかもしれません。大学のアメフトの試合中に起きた 「悪質タックル」 といわれる件は、監督も選手も、激しい試合の性質から、その時は、いいと思ってしたことではないでしょうか。

しかし、かれらはその行為の良し悪しにまでは気がまわらなかった。結果にでてくる現実を予測できなかった。抗議を受け、騒ぎが大きくなって、はじめて、取返しのできないことだった、と知ることになったのではないでしょうか。しかし、「それでいいと思った」 とはとても言えない。批難ごうごうの中で謝るしかない。

似たようなことは国会でもありますね。自分たちの要求がいれられなければ、といってストをする野党がありました。もっとも、やってみてスト権がないことに、彼らが気づいたかどうかはあやしいです。まったく謝るようすもないですから。

 

 

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